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攻撃から守りのサッカーへ

 日本のプロ野球では「リーグでせっかく優勝しても、日本シリーズで負ければ、その喜びも消しとんでしまう」といわれるが、バルセロナにとって、ヨーロッパ・チャンピオンズカップの大ステージでの宿敵・レアル戦の大敗は猛烈なショックとなった。

 別の相手に負けるならともかく、レアルに、それも全ヨーロッパ注目の中での敗戦―――当然、非難は監督に集中する。エレラは街を歩くこともできなくなった。オーナーは、彼を解任する。

 次の年、バルサは再びヨーロッパ・チャンピオンズカップに進む(スペインのリーグ優勝者)。レアルはまた欧州の王として1回戦でバルサと対戦するが、こんどは、もうレアルの神通力は失せていた。バルサは2−2、2−1で勝って、準々決勝、準決勝を勝ち抜くが、決勝でポルトガルのベンフィガ・リスボンに負けた。

 そのころ、エレラ監督はイタリアのインテル・ミラノにいた。

 華やかな攻撃サッカーをめざしながら、その失敗のツケの大きさ、そして、KOシステムで勝ちあがるための守備の重要さを痛感したエレラは、インテルでは守り重点の戦略を考える。それが1962−63シーズンでのインテル・ミラノのリーグ優勝となり、1963−64年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ制覇となる。この64年の欧州優勝の決勝の相手がレアル・マドリーであったのも、エレラには不思議な運命といえた。そしてまた、エレラとともに、バルセロナからインテルに移ったスワレスも、イタリアと欧州のチャンピオンに輝いたのだった。

“カテナチオ”という守り重視のサッカーがイタリアを支配し、それが一時期のヨーロッパに、さらには世界にも(日本にも)影響を及ぼすのだが、そのきっかけが、エレニオ・エレラ……。彼がバルサとレアルの強烈な対抗意識のために、“負けることの辛さ”を身にしみて感じたこと、そして、負けないチームを作りあげるのに苦心したことにある―――。こんなふうに考えれば、サッカーのつながりは、まことに不思議でおもしろい。


(サッカーダイジェスト 1989年6月号「蹴球その国・人・歩」)

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