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サッカー 故里の旅 第16回 新装のスタジアムの正面でヒルズボロの悲劇とその教訓を思う

“ここが正面の入り口、これがリバー・ドン(RIVER DON)にかかっている橋、そうすると、西のゴール後ろのスタンドは、この左手になるのだろう”
 6月16日、午後5時20分、わたしはシェフィールド市のヒルズボロ競技場の正面入り口の橋の上にいた。
 欧州選手権のグループリーグD組のクロアチア対デンマークのキックオフまでにまだ40分あった。
 この日の昼前にリバプールを出て2時間ほどでスタジアムに到着し、メディア・センターでC組のドイツ対ロシア(3−0)を観戦した後、スタジアムの外観を眺めていた。


明治元年創立のクラブ

 シェフィールド(SHEFIELD)という町はロンドンの北280キロ、マンチェスターの南東65.6キロにある人口50万、シーフ(sheaf)川のそばの開けた土地(feld=field)というのが名の由来とか。水力、鉄鉱石、木炭などに恵まれていて中世から刃物の産地として栄え、現在も鉄鋼業で知られている。
 この町にサッカーのクラブ、シェフィールド・ウェンズデーが誕生したのは1867年(明治元年)。それまでシェフィールド・ウェンズデー・クリケットクラブのなかでプレーしていた人たちによって、フットボール・クラブが設立されたのだった。名前のウェンズデー(WEDNESDAY)は言葉どおり「水曜日」。クリケットクラブが生まれた1825年ごろは、水曜日を半日休みとしていた習慣があり、クリケットの試合も日曜(安息日)でなく水曜日に行なっていた。サッカーのクラブも、その出生に倣ってウェンズデーをつけ、現在のように試合が土曜となっでも、その名を踏襲している。

 ついでながら、歴史を読むと、1863年に設立されたFA(フットボール・アソシエーション)のルール統一の話に「シェフィールド・ルールズ」が出てくるが、これはシェフィールドのクリケットクラブでフットボールもするようになった(1855年から)クラブ員たちが、自分たちの試合のためのルールをつくって1857年に発行したもの。したがって、このクラブは、リーグで4番目に古いというだけでなく、設立以前にすでにFAのルール統一にかかわっていたといえる。


立見席へ押しかけた人の波

 こうした長い歴史を持ちながら、比較的地味なクラブの名が世界に広まるのは、このホーム競技場で、89年4月15日に起きた大事件「ヒルズボロの悲劇」のためだ。88−89年のFAカップ準決勝のリバプール対ノッティンガムの試合のとき、西スタンド下のテラス(立見席)に、続々と入ってくる入場者に押され、96人が死亡した痛ましい話は、今も多くの人の記憶に残っている。
 試合の前にわたしがメディア・センターを出て、スタジアムを外から眺めるのも、当時をふりかえるためだった。
 事故の詳細は別の機会に譲るとしても、それまで何度もあった古いスタンドの火事や倒壊、さらにはフーリガンによる騒動などから、スタジアムの担当者も、警察も経験を積んでいたにもかかわらず、テラスに多くの人が入ったこと、そして立見席とピッチの間に堅固な仕切りの柵があったこと(フーリガンのグラウンドへの進入防止)のために、一般のファンが被害を受けるという事故だった。
 ヒルズボロ・スタジアムは、当時としては、ターンスタイルとコントロールセンターとの連動や、多くの監視カメラの配置など、災害防止の設備の整っていた方だった。
 南スタンドのコントロール室では各スタンドの入り口をテレビで監視し、ターンスタイルを客が通るたびに、スタンド全体の入場者数が計算され、入場リミットに近づくと警報が発信される仕組みになっていた。ただしテラスのそれぞれの区分での入場者が適切な数かどうかを感知するモニターはなかった。西スタンドへのAからGのターンスタイルを通った後の誘導も十分ではなく、キックオフ直前に心の急ぐファンは、スタンド下のトンネル通路に集中した。その上、ゲートの前に、まだ入り切れない人が多くて、事故を心配した係がゲートを開いたため、さらに多くの群れがトンネルを通り、テラスへ向かった。
 先に入って、立見席の一番前に陣どった人たちは、後ろから、続々と入場してくる人の波のために、堅固な柵に押しつけられた。何人かはフェンスを登り、仕切りを越えて空いた区別へ逃れた人もあったが、多数が胸や腰を圧迫されて被害にあった。


テーラー報告を生かして

 この事故はリバプールのクラブ、サポーター、リーグ、FA、サッカー関係者に大きな衝撃を与えただけでなく、政府にも、各都市の行政にも強いショックを与えた。
 テーラー判事を長とする調査委員会が直ちにつくられ、事故の原因を徹底的に調べた。そして達した結論は、「サッカーという最も大衆に愛されているスポーツの観戦という点で、すべてのイングランドのスタンドの施設はあまりにも貧弱で、安全性に欠け、快適さからほど遠い。この状態を抜本的に解決しなければ、フーリガニズムを排斥し、市民がサッカーを安心して楽しむことはできない」だった。
 以来、このテーラー報告に沿う努力が急ピッチで進んだ。事故から6年――いま取材の旅を続ける「EURO96」は、UEFAの施設委員長が「THE BEST IN THE WORLD」と折り紙をつけた、世界で最も快適なスタジアムでの大会となった。
 新しいスタジアムを眺めながら、わたしは“悲劇”を思い、その教訓を生かすためのさまざまな施策を思い起こすのだった。


(サッカーマガジン掲載)

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