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サッカー 故里の旅 第18回 スピオン・コップに注ぐ愛惜の情 一枚の絵に市民の思いを見る
“これはいくらですか”
「15ボンドです、サー」
ショーウインドーにある小さな額が目についた。A4版くらいの大きさのサッカー・スタンドの画。
そのテーマは「THE LAST GAME AT THE KOP, LIVERP00L F00TBALL CLUB」(リバプールFC、コップでの最後の試合)で、フランク・グリーンという作者の署名と1994年4月30日の日付がある。
アンフィールド・スタジアムのゴールうしろ、リバプールのサポーター席を描いたものの印刷で、絵画としての価値はともかく、満員のサポーターが手にするスカーフ(マフラー)や旗の何百もの一つひとつを筆で描きこんでいる作者に、コップの心が乗り移っているような気がしてつい買ってしまった。
96年6月17日、わたしはリバプールのアルバート・ドックにいた。
ヨーロッパ選手権は前日の6月16日で、1次リーグのA、B、C、D各組2回戦を終わっていた。
こういうトーナメントでは、第2戦で、ほぼ見通しのつくチームが出てくるもので、A組ではイングランドとオランダがともに1勝1分で優位に立ち、スイスとスコットランドが1分1敗、B組はブルガリアとフランスがこれも1勝1分、スペインが2分、ルーマニアは2敗。C組はドイツが2勝、イタリアはチェコに敗れたためチェコとともに1勝1敗で第3戦にかけなければならず、強いはずのロシアは2敗で上位への望みはなくなった。D組はクロアチアが2勝し、ポルトガルが1勝1分、前チャンピオンのデンマークは1分1敗で苦しく、トルコは2敗といった形勢で、18日にはA、Bの残り2試合ずつ、19日にC、Dの2試合ずつを行なうことになっていた。
17日は、その中休み、朝にホテルでいくつかの新関に目を通したら、前日の2試合(前号参照)のリポートよりも、イングランドのこれまで2試合の戦いぶりと、18日の対オランダ戦への話題にたっぷりとスペースを使っていた。
サッカー写真展とビートルズ
次の試合のことを考えれば、マンチェスター周辺にいるイタリアかドイツの宿舎やトレーニングを取材にゆくのが普通だろうが、こんどの旅でのリバプール滞在は、この日が最後となれば、やはり終日ここにいて、この町とサッカーの独特の空気を味わいたいと思ったのだった。
アルバート・ドックは、マージー河の右岸にあるリバプールが、かつて貿易港として繁栄した時代の象徴ともいえるドック(船荷の積みおろし場)で、3ヘクタールの内水面を囲むようにして回廊状の建物がめぐらされ、その色彩と水とのコントラストは、この周辺にある巨大な建造物のなかでも、際立った美しさ。
港がさびれるともに1972年に閉鎖されたが、このユニークな建物は、新しくショッピングセンターとして生まれ変わり、リバプールの港一帯の再開発とあわせて、観光の目玉となっている。わたしがここを訪れたのは、ひとつには、ドックの入り口にある博物館「リバプール・ライフ・ミュージアム」でサッカー写真展があると聞いたのと、ドックの南側のブリタニア・パビリオンにある“ザ・ビートルズ・ストーリー”をのぞいてみたかったからだ。
そのミュージアムのサッカー写真展は小規模だったが、“スチュアート・クラーク”というプロフェッショナルの作品。彼は、こんどのEURO96でもフットボール・トラスト(各クラブのスタジアム改装費を用立てる組織)の公式カメラマンとして働いているようだが、そのサッカーへの愛情のこもった写真のなかに、アンフィールドでのコップの最後の試合という一枚が印象に残り、そのあとで同じ構図の絵を見たのだった。
スピオン・コップは心のふるさと
1989年のヒルズボロの悲劇(連載第16回参照)のあとのテーラー報告によって、プレミア・リーグのスタジアムの改装案が提示されたときに、(1)悲劇の直接の原因となったスタンドとピッチとの間のフェンス(フーリガンの侵入防止のため)の除去にはじまり (2)テラスと呼ばれる立見、追い込み席の全廃(3)全スタンドはシート席(指定)など、74項目が指摘されたが、リバプールのサポーターにとって、アンフィールド・スタジアムのゴールうしろ(南側)の立見席は格別の思いのあるところだった。
1900年のボーア戦争のときにリバプール連隊の兵士たちが戦った激戦地スピオン・コップをその名として以来、ここに集い、声をはり上げ、旗を振るレッドアーミーは、いつしかスピオン・コップと呼ばれ他のクラブのサポーターからも特別の目で見られるようになった。
彼らにとっての最大の悲しみとなったヒルズボロ事件の翌日からしばらく、この南スタンドは全世界から送られた花や、スカーフやフラッグなど追悼の品々で巨大な葬送の式場となった。
その喜びと悲しみがしみついた彼らの心の故郷ともいうべきスタンドが94年4月30日の試合を最後に取り壊される――。サポーターたちは“嘆願”の一万人の署名を集め、あるいは「NO KOP SEATS」のプラカードで練り歩くなど、さまざまな延命運動もしたほどだった。スピオン・コップの最終戦は、まさに、そのスタンドへの別れの日だったのだ。彼らは、この日にも「ユール・ネバー・ウォーク・アローン」を歌ったのだろうか。
ティールームで、ミルクティーを飲みながら、わたしは、この町のサッカー人のアンフィールドに対する傾斜ぶりに、あらためて深い感銘を覚えるのだった。
(サッカーマガジン掲載)