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サッカー 故里の旅 第19回 007のモデル マクリーン卿を偲ぶウエンブリーへのファーストクラス

「フィッツロイ・マクリーン卿実在の“ジェームズ・ボンド”死去、85歳(Sir Fitzroy Maclean 'the real James Bond' dies aged 85)」

“第二次大戦の伝説の英雄であり、SAS(空軍特殊部隊)の創設者でありまた007のジェームス・ボンドのモデルともいわれているサー・フィッツロイ・マクリーン、心臓発作で死亡、85歳。ハートフォードレヤイアー・ストラッチャーの自宅の近くで埋葬される…”
 派手ではないが丁重な扱いと記事とフィッツロイの名と“ジェームス・ボンド”にひかれ、12面のこの人の略歴にまで目がゆく。

 1996年6月18日、わたしはリバプール9時45分発、ロンドン行きの列車でタイムズを読んでいた。


パルチザンの援助に功績

 この日のわたしのスケジュールはロンドン・ユウストン駅着13時36分セント・ジェームス・ホテルへ荷物を置いて、ウエンブリー・スタジアムへ行き、メディア・センターのテレビの前で、16時30分開始のゲームを待った。

 B組、フランス−プルガリアまたはルーマニア−スペインを見たあと、この日のハイライト、A組のオランダ−イングランド(19時30分)を取材することになっていた。
 当然、駅で買ったタイムズも、スポーツ面をまず見て、最後には必要なところだけを切り取ってファイルするのだが、この日は、どういうわけか、フィッツロイ・マクリーン氏の死亡記事が気になったのだ。
 ケンブリッジ大学を出て外交官となり、モスクワなどでの駐在経験を経たのち1939年にロンドンに帰ったところで、英国の対ナチス・ドイツへの宣戦布告があり、マクリーンは軍務につくうち、空軍の特殊部隊(SAS)の創設にかかわる。

 アフリカ戦線ではロンメル将軍の機甲軍団に対するゲリラ戦を行なって戦勢の挽回をはかったが、さらに1943年にはユーゴに飛び、パラシュート降下して、パルチザンの指導者チトーと会い、連合軍側との連絡役をつとめることになる。当時ナチス・ドイッ占領下のユーゴスラビアでは、チトーのパルチザンと、ミハイロビッチの率いるチェトニクという二つの組織がドイツに抵抗していたが、彼はチャーチル首相にチェトニク(後に抵抗を停止)でなくパルチザンと組むことを進言し、これが成功したのだった。
 フランス語、ドイツ語、ロシア語、セルブ・クロアチア語を自在に話す彼は旅行家としでも知られ、すばらしい旅行記もいくつか書いた。
 彼の友人であるイアン・フレミングが描いたジェームズ・ボンドは、マクリーン氏をモデルにしたというのが定説だったが、彼はその点には亡くなるまでノーコメント。スパイといわれるのを好まなかった。


オランダとイングランド

「クルウにつきます」とアナウンスがある。戦中派のストーリーから、スポーツ面に目を移すと、イングランドのベナブルス監督のにこやかな笑顔がうつっていた。
 対スコットランド(15日)の快勝で、第1戦の対スイスの引き分けでの暗いムードを吹き払い、いよいよ第3戦で宿敵オランダを迎える――イングランドが勢いがあるだけに、紙面のつくりも生き生きしている。

 オランダは、ブリテン島に近いところから、サッカー協会の設立も1889年とデンマークについで欧州大陸で二番目に古い。
 サッカーの国際的な大会で活躍するようになったのは、1970年代のアヤックスと、フェイエノールトの欧州チャンピオンズ・カップでの優勝や、74年西ドイツ・ワールドカップの代表チーム、つまり“天才”クライフと知将ミケルスによるトータル・フットボールからだが、それ以前から市民の間では、もっとも普及したスポーツだった。先述のマクリーン氏が活躍した第二次大戦を描いた映画にも、大陸上空で撃墜された英国空軍のパイロットが、オランダの農家にかくまわれ、逃出するのが、その町のサッカーの当日、町全体が賑わいナチス・ドイツの兵士たちもサッカー好きで警戒が弛むのを利用する――という設定があったのは、そのころからのサッカーの人気を示したものだろう。

 それはともかく、クライフたちの第一期黄金時代からしばらくして、80年代後半から90年代にかけての第二期黄金期が続いている。(超大型のストライカー、ファンバステンをはじめ、フリット、ライカールト、そしてDFのクーマンを加えた4人衆が代表チームをひっぱり、88年に欧州チャンピオンを獲得した。彼らの時代は92年まで続いたが、こんどの大会は、その「4人のスター」が去ったあとの、第二期黄金期の後半というべき時期、すでにアヤックスが欧州を制し、トヨタカップでPK戦ながら「世界」の首座にもついた。

 この強敵に対してイングランドはどうなのか。ウエンブリーでの最近の対戦は94年米国ワールドカップ予選で2−2だった。欧州選手権では1988年の西ドイツ大会、グループリーグでイングランドは0−1で敗れているが、試金当日のイングランドの宿舎、ビーシャム・アベイの空気は、まことに落ちついていて、記者だけが休みなく働いていた。そして、それらの記者のインタビューに、GKシーマンやストライカーのシアラー、アダムスらが実にサービスよく答えていた。アダムスは「88年は世界一のストライカー、ファンバステンをマークした。こんどは同じアーセナルのベルカンプが相手。彼は機知に富むプレーヤーだ。しっかりやらなくては」と語っている。もうすぐ、その対決が見られる。
 また紅茶が飲みたくなって、わたしは立ち上がりスナックに向かった。ロンドンまで、あと1時間ほどだ。


(サッカーマガジン掲載)

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