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vol.22 スウェーデン


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 スウェーデンは、サッカーだけでなく“大国”がタイトルマッチを戦うとき、警戒する相手の一つだ。今年のイタリア・ワールドカップにも出場する、ここの代表チームは、半世紀前のベルリン・オリンピックで日本と戦ったこともある。そして、その縁で日本との交流も深く、彼らから得たものも大きい。今月は、北欧にあってスポーツ界のユニークな存在、そして、サッカーで敬意を払うべきスウェーデンの、くに、ひと、あゆみを取り上げよう。
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ノーベル賞とサッカー

 1949年(昭和24年)の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞は、第2次大戦の終結からわずか4年、辛い生活をしていた日本人にとって、このうえない明るい話題だった。湯川博士の中間子理論という難しい学説はともかく、世界的な賞が贈られるというだけで、日本人の頭脳に改めて自信を持つ、そんな感じが社会にあった。
 その湯川博士の受賞式が12月10日にストックホルムで行なわれたとき、スウェーデンの記者が「1936年のベルリン・オリンピックで、日本はスウェーデンのサッカーチームを破ったことがある。あなたも日本から来られたのだから、サッカーもされるでしょう」とボールを渡したら、湯川博士は、そのボールでヘディングをしてみせたという。
 スウェーデンの記者にすれば、いい写真を撮るための一種の仕掛けだったのだろうが、スウェーデン人の記憶に、1936年、つまり、そのノーベル賞受賞式の当日から13年も前の、ベルリンでのサッカーの敗戦の記憶が残っていた表れだったともいえる。

ベルリンの奇跡

 多くの日本人にとってのスウェーデンは、「白夜の国」であり、「福祉国家」であり、また、イングリッド・バーグマンに代表される「美人国」、特に男女ともスラリと長身で色が白く、髪はブロンド等々。
 スポーツ好きには、テニスのビヨン・ボルグをはじめ、彼に続くマッツ・ビランデルやステファン・エドバーグ等、現在のトッププレーヤーの名を思い浮かべるだろう。しかし、私たちのような戦中、戦前の日本のフットボーラーには、スウェーデンといって、まず頭に浮かぶのは、1936年の“ベルリンの奇跡”となる。

 もちろん、当時の多くの日本人にとって、ベルリン・オリンピックは、陸上競技の3段跳びの優勝(南部忠平)や棒高跳びの大江、西田とアメリカのメドウスとの長時間に渡る戦い、1万メートルと5千メートルでの村社の力走。さらには孫基禎のマラソンの優勝。そして、水泳が圧倒的に強かった――ことが強調される。
 しかし、メダルに関係なくても、初めてオリンピックに参加した日本という未知のサッカー人たちが、当時、すでにスカンジナビアでは断然たるサッカー強国であり、ワールドカップなどにもチームを送り込み、欧州各国から一目置かれていたスウェーデンを破った――それも、前半0−2とリードされたのを、後半に3点を奪って大逆転したのだから、ヨーロッパ人にとっては“ベルリンの奇跡″と思えたに違いない。

 私は当時12歳の小学生だったから、直接(ラジオでもサッカーの試合は放送されなかった)このゲームを見聞したわけではないが、大逆転劇を演じた川本泰三、右近徳太郎などのプレーヤー、あるいは監督だった竹腰重丸、つぶさに観戦した田辺五兵衛などの諸先輩から、折りにふれて語られ、聞かされ、また、いろいろ資料を読みもした。
 この時期の先輩より一回り若い私たちにとって、ベルリンの大逆転は、今の代表選手たちが“メキシコの栄光”(1968年、メキシコ・オリンピックで3位になった)を聞かされるのと似た立場でもあった。それはともかく、メキシコ・オリンピックの銅メダルと同じように、“ベルリンの奇跡”は日本国民よりも、むしろ相手国の大衆の心に長く記憶されていたといえる


南西部の町ヨテボリ

 スウェーデンは、ヨーロッパ大陸の北部、スカンジナビア半島の南東部を占め、南北に長く日本の1.2倍の国土を持つ。北方ゲルマン系の人種が住みつき、8〜10世紀のバイキング時代を経て、13世紀中頃には王国を形成。14世紀にはスカンジナビア統合で、ノルウェー、デンマークとともに3国で同盟を結成し共通の王を持ったが、やがて王権を持つデンマーク王に反乱、1523年に独立した。17世紀には、バルト海一帯を支配する大国となり、やがて強力なロシアと戦って敗れる。19世紀にはフィンランドをロシアに譲り、平和政策に転じて、農業国から工業国へ転換するとともに、180年間、戦争のない平和な国として繁栄してきた。

 このスウェーデンにサッカーが入ってきたのは1870年代。南西部の港町ヨテボリ(GOTEBORG)にスコットランド人がもたらしたとも、ストックホルムの英国大使館員がプレーしていたともいわれている。
 イングランドでは、1863年にFA(フットボール・アソシエーション)が設立され、古いフットボールから手を使わないサッカーと手を使うラグビーが、それぞれスボーツとして分離し始めたころだが、このころのスウェーデンでは、まだルールはサッカーともラグビーともつかぬものであったらしい。
 それがイングランドのFAのルールブックが翻訳され、1891年にスウェーデンで出版されると、“サッカー”が急速に広まり、選手権試合が開催されるようになって、一気に盛んになる。その一方で、ラグビー流は消えていくことになる。

 港町ヨテボリは、その後もスウェーデン・サッカー界の南部の中心地として、重要なポジションを占め、最初のクラブ「ユールグリテ・ヨテボリ」や1904年に生まれた「IFKヨテボリ」などが現在まで活動を続けている。また、首都ストックホルムにも1891年に「ユールゴルデン(DJURGARENS IF)」が生まれ、次いで「AIKストックホルム」も設立されて、ヨテボリと並んでストックホルムもサッカーの中心地となる。


ストックホルム五輪

 冬の長い北国で最も盛んなスポーツとなったサッカーは、20世紀に入って、まず1908年のロンドン・オリンピックに参加する。1904年にFIFA(国際サッカー連盟)が設立されて4年。この大会からサッカーがオリンピックの正式競技となった。といっても、参加国はわずかに5ヶ国。本家というべき英国とデンマーク、オランダ、フランスAとフランスB、それにスウェーデンだった。

 スウェーデンは1回戦で英国と当たって、1−12の大敗。フランスBもデンマークに負け、準決勝は英国対オランダ、デンマーク対フランスAとなり、英国とデンマークが勝って決勝へ進んだ。スウェーデンは1回戦で敗れたものの、フランスA、Bが棄権したため3位決定戦に出場、オランダに0−2で敗れ4位となった。オリンピックも“のどか”な時代であった。

 1912年のストックホルム・オリンピックは、そんなオリンピックが運営面でもきちんと整い、現在の繁栄の基礎を築く大きなステップとなった大会だった。日本の私たちには、初めて日本からマラソン金栗、短距離の三島の両選手が参加した記念すべき大会。嘉納治五郎団長と両選手が日の丸を持って行進する写真は、日本のスポーツ史での重要な1コマである。と同時に、このオリンピックに参加するために、今の日本体育協会(通称・体協)が創られ「オリンピックを目指す」ことが、体協関係者の共通理念として定着する元になったこと、そして、このオリンピック流の考え方、儀式(入場行進)や試合方法(1ヶ所に集まるトーナメント)が日本では高校野球に採り入れられ、こうした大会の形式がスポーツ大会の“模範”となってしまうこと(スポーツには競技の性格上、それぞれに適した形式がある)など、現在に至るまで、この明治45年のストックホルム大会は大きな影響を持つことになる。

 サッカー好きのスウェーデン人にとって、もちろん、開催国チームの上位進出は何よりも望みであったが、残念なことに1回戦で強敵オランダに敗れ、敗者復活戦でもイタリアに負けてしまった。オリンピックでスウェーデンが勝利を挙げるのは、第1次大戦後のアントワープ大会(1920年)。1回戦で新顔のギリシャを9−0の大差で撃破した。しかし、2回戦では、またしてもオランダと当たり、4−5で惜敗している。


1920年代〜30年代

 スウェーデンがオリンピックの上位に進出したのは、次の24年のパリ大会。サッカー史の上では、南米のウルグアイが初登場し、ヨーロッパ人に大きなショックを与えて優勝した大会だが、スウェーデンにとっても、銅メダルを獲得したエポック・メーキング的なトーナメントとなった。1回戦は不戦勝、2回戦でベルギー、準々決勝でエジプトをそれぞれ大差で退け、準決勝でスイスに敗れたが、3位決定戦でオランダを再試合の末に破った。
 この1924年には、選手権リーグが全国規模に拡大され、その前年にはイングランドのフル・インターナショナル(代表チーム)がスウェーデンを訪れたこともあって、サッカーの人気はいよいよ高まる。

 次の国際試合での光彩は、34年のイタリア・ワールドカップ。ノックアウト方式の1回戦でアルゼンチンを3−2で破り、2回戦でドイツに1−2で敗れはしたが、国内にプロフェッショナルを持たないスウェーデン代表の高水準は、ワールドカップでも高く評価された。
 そんな上げ潮に乗ったスウェーデンは、1936年のベルリン・オリンピックでは、当然メダル候補だった。長身で力強く、また、テクニックにも優れた彼らが、まさか日本に敗れるとは誰も考えなかったらしい。

 ベルリンから2年後のフランス・ワールドカップ。スウェーデンはベスト4に進出する。ハンガリーに準決勝で敗れた後、3位決定戦でもブラジルに2−1で敗れたが、ブラジル戦での好プレーや2回戦でのキューバに対する大量点(8−0)などで、スウェーデン・サッカーの実力を世界に示している。


念願の金メダル獲得

 第2次世界大戦で、ヨーロッパの多くの国が戦火に巻き込まれているときでも、スウェーデンの平和政策はこの国の中立を保った。そして、戦いが終わって平和の到来を告げる48年のロンドン・オリンピックで、スウェーデンは念願の金メダルを獲得、世界の注目を集めた。1回戦は不戦勝で、2回戦から決勝戦までの4試合で挙げた得点は22、失点は3。3−0オーストリア、12−0韓国、4−2デンマーク、3−1ユーゴ。
 この優勝に、グンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムのFWトリオの名前から“グレ・ノ・リー”とマスコミはもてはやし、スウェーデンのパスワークとシュート力は、ウェンブリーでプロの高度なワザを見慣れた英国ファンをも魅きつけた。

 準決勝の対デンマーク戦で、グンナー・ノルダールがオフサイドの位置にあったとき、とっさにデンマークのゴール内に入った判断は(フィールド外に出た)当時の珍しいプレーの話題として世界に広まった(カールソンのヘディングが成功した)。彼らの完璧ともいえるコンビネーションは、個人技の面で最高と思えたユーゴを撃破したのだった。
 このスウェーデンのトップクラスのプレーヤーを、イタリアのプロ・サッカー界は放っておかなかった。ACミランは“グレ・ノ・リー”の3人をそっくり自分のラインナップに加え、51年にはイタリア・チャンピオンとなっている。グンナー・ノルダールはACミランで225ゴールを挙げ、リーグの得点王に5度も輝いている。


ヘルシングボーリュの来日

 1951年(昭和26年)に来日したヘルシングボーリュは、第2次大戦後の“鎖国”状態にあった日本サッカー界にとって大きな刺激になった。ヨテボリよりも南、デンマークと海峡を隔てた町のクラブチームは、私には先輩から聞かされていたスウェーデンのプレーヤーの先入観とはまったく違うイメージだった。力強さよりも技巧派で、強引でなく理詰めで相手の守りを崩しにかかっていた。

 驚いたのは、若い21歳のベルギトソンというFWが緩と急を見事に演じ、相手の体勢の崩れる“間”を狙うほどの戦術眼を持っていたこと。
 戦術といえば、彼らは中盤から前線への飛び出しのとき、交差する動きが入ること。この動きはアイスホッケーの動きからのヒントのように見えた。ボール扱いについては、南米直伝のブラジル流テクニックを学び、同時にサッカー・スパイクも、それまでの先端に甲皮(硬い皮)が入った旧式のスタイルから、軟かい現在に近いものに替えていた。南米のようなボール・テクニックをするには、このスパイクでないと、と彼らが見せるスパイクは、それまで私たちが用いていたものよりずっと軟かかった。
 来日したこのチームの団長が、最初に話した言葉は「ベルリンの借りを返しに来た」というのだったが、大戦のブランクが大きい日本と、その間に力を貯えたオリンピック優勝国との間には大きな開きがあった。

 日本との交流が開けて2年後、1953年 (昭和28年)にもストックホルムの名門ユールゴルデンが来日した。このチームはヘルシングボーリュよりも“力強さ“という点でスウェーデンらしく、ストライカーのヨハンソンは、アイスホッケーから誘われているとのことだった。
 彼の名声を開いて、日本のアイスホッケー協会が手合せを申し出て日本代表と対戦したが、ヨハンソンを軸にした他のメンバーもなかなか上手で、結局、日本代表はアイスホッケーのプロとも言えるヨハンソンと他のアマチュア5人に負けてしまった。
 このとき、私が感じたのは、日本サッカーとスウェーデン・サッカーがボール扱いという基本に差があるように、アイスホッケーでも、まずスケーティングという氷の上を滑る技術に差があるように見えた。日本の選手は氷を蹴らないと速く滑れないのに、スウェーデンの選手は、氷へのキック無しで、体重の移動だけで実にスムーズに滑っていた。彼らは屋内リンクでなく、アウトドアの広いリンクで、自然に効果的なスケーティングを覚えたという。


ワールドカップ開催の成功

 単独のクラブが日本を訪れるようになったころ、スウェーデン代表チームもまた桧舞台で輝いていた。
 52年のヘルシンキ・オリンピックで3位入賞。その2年前の50年、ブラジルでのワールドカップでも3位。48年のスタープレーヤーのほとんどが海外へ流出した後だけに、改めてスウェーデン人のスポーツ資質の高さ、サッカーのレベルの高さを知る思いだった。彼らの思い入れは、58年のワールドカップを自国で開催するところまで高まった。
 スウェーデン協会は、これまで海外でプロとして働いているプレーヤーの、代表チームへの参加を認めていなかったが、今度は大ベテランのリードホルムをはじめ、仲間のグレン、それに、インテルの小柄なウイング、スコグラー、アタランタのセンターハーフ、グスタフリンなどが加わった。

 48年から代表チームの監督をしている英国人、ジョージ・レイナーにとって、チーム編成は、イタリアのクラブとの交渉が大きなポイントとなって大変だったが、スウェーデンの大衆やマスコミは、そんな苦心のチーム強化にも大して注意を払わず、あまり期待もしていなかったらしい。
 それが1次リーグを首位で突破し、準々決勝でソ連に勝つと一気に爆発的な人気となり、ヨテボリでの準決勝、対西ドイツ戦は、この国ではかつてなかったほどの、ホームびいきのスタジアムとなった。スポーツマン・ライクで、平静にゲームを楽しむスウェーデン人の突然の変わりようは、改めてサッカーの魔力を思い知らされるのであった。

 決勝の相手ブラジルは、かつてない芸術的なチームで若いぺレもいた。ワールドカップは1930年以来、長い道のりを経て、この“スーパーチーム”ブラジルを生み出し、サッカーの素晴らしさを世界に知らせた。国の代表チームのタイトルマッチという、対立意識をむき出しにした大会でなく、適度な国家意織、対抗意識を持ち、高いレベルのボールゲーム、チームゲームを楽しむ真のサッカーのおもしろさがあった。
 2−5で敗れたスウェーデン代表にも、勝ったブラジルにも、すべての観客は満足した。ワールドカップの開催は、スウェーデンの各開催都市の設備向上となり、その都市のクラブはホーム・グラウンドとして、市から借りるスタジアムの収容力が増えることで、後のリーグ運営が楽になり、入場者増加でクラブ財政が潤い、ひいては若手育成にもなお努力を割くことにもつながった。


選手の海外流出

 貧富の差のない高度の工業国で、福祉がゆきとどいている国では、プロフェッショナル・スポーツは育たない――というのが、ある識者の意見だが、スウェーデンでは夏のサッカーも冬のアイスホッケーも大人気ながら、フルタイム・プロになるには海外へ出て行く。その選手流出のために、クラブレベルでは欧州のトップクラブに対抗するのはむずかしかった。
 1958年のワールドカップの成功は、そうしたサッカー人に励みを与え、リーグのレベルアップやシステム(シーズンを夏に完全移行)の改変に力を注ぐようになる。しかし、実際にクラブが欧州のトーナメントで実績を作るのは、80年代になってから。

 代表チームも、70年のメキシコW杯、74年の西ドイツW杯と出場したが、上位には入れなかった。ただし、西ドイツ大会では、1次リーグで“新しい驚異”オランダ代表と0−0の引分け、2次リーグでも西ドイツ(優勝)と2−4のスリリングな攻防を演じて、黄色のシャツ、ブルーのパンツのスウェーデン・サッカーの存在を世界に知らしめた。
 74年のスウェーデン代表は、戦術的にはオランダのような新しさはなかったが、一人ひとりのキープ力がしっかりしていて、たとえ相手に囲まれて突破できなくても、ボールを相手に奪われない。そのため、オランダは得意の速い囲い込みをしても、ボールを取るために、ファウルをしてしまうという場面が何度もあった。


欧州カップでのクラブチーム

 ヨーロッパの例にもれず、スウェーデンのサッカーも都市に根を下したクラブで成り立っている。トップリーグは12チーム。その下に北部と南部に分かれた14チームずつの地域リーグがある。首都ストックホルム (人口65万人)を本拠とするのが3クラブ、ヨテボリ(42万人)にも3クラプ、マルメ(23万人)、ノルシェーピング(12万人)、スンドバル (9.5万人)、バクシェ(6.5万人)などにもトップリーグのクラブがある。
 都市の規模からいくと、今年の高校選手権で優勝した南宇和のバックグラウンドと同じくらいのところもある。こうしたクラブの中で、70年代の終わりから、ヨーロッパの3大クラブ・カップで上位へ進出するところが出てきた。
 79年にマルメが3大カップの中で、最も人気と権威のあるチャンピオンズ・カップの決勝に進出。決勝ではイングランドのノッティンガム・フォレストに0−1と惜敗し、準優勝に輝いた。

 82年にはIFKヨテボリがUEFAカップで初優勝。準決勝でカイザースラウテルン、決勝ではハンブルガーSVと、西ドイツの強豪チームを倒してのタイトルだった。5年後、ヨテボリば再びUEFAカップを手にする。準決勝はインテル、決勝はダンディー・ユナイテッド。イタリアとスコットランドのプロ中のプロを抑えての優勝だった。


注目の90年ワールドカップ

 クラブの欧州での好成績は、そのまま代表レベルにもつながる。88年のソウル・オリンピックには、久しぶりにスウェーデンの名があり、準々決勝でイタリアに延長戦の末に敗れてベスト8にとどまったが、今年、90年のイタリア・ワールドカップには、欧州第2組予選トップ国として参加する。
 イングランド、ポーランド、アルバニアと同じ国に属し、“サッカーの母国“イングランドを抑えて首位。40歳のオーレ・ノルディン監督が各国に散っているトッププレーヤーと国内選手をうまく組み合わせて、パワフルで攻撃的なチームに仕上げた。本番でも“大国“のチームを驚かせるだろう――と、スウェーデンのサポーターたちは、平静に、そして、秘かな期待をもって見つめている。

 100年の歴史の中で、急ぐことなく、遅れることなく、それでいて秀れた個性を生み出すスウェ−デン・スポーツ界。サッカーもまた、悠々とクラブを創り、ワールドカップを開催し、それを足場に青少年育成の根を下し、着実に歩むスウェーデンを、私たちは今後も見続けて行きたい。


(サッカーダイジェスト 1990年4月号)

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