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スワレスとクバラ

 スワレスの名は、この雑誌の読者なら「いまのスペインの監督では―――」と思われるはずだ。
 1935年、スペインの北西、コルーナ近くのリアソールで生まれた彼は、兄とともにサッカーを志し、18歳でコルーナ対バルセロナの試合にデビュー。その素晴らしいプレーに魅せられたバルセロナが、彼を買いとった。
 卓越したボール・コントロールと、豊かなイマジネーション、スリムな長身で、みごとなステップをふみ相手をかわす。1960年には、ヨーロッパのフットボーラー・オブ・イヤーに選ばれている。彼の背番号が「10」であることから、当時のスペインでは「10センターボ」のコインを、ルイス・スワレスの愛称ルイジートと呼んだという。
 レアル・マドリー出身のムニョス監督のあとを、スワレスが引き受けたのだが、そのプレーヤーとしての輝かしいキャリアの上に、指導者の光彩を加えることができるのかどうか―――。

「クバラを知っているか」とクラマーさんがボクに聞いたのは、昭和40年のアジア・ユースのときだったが、駒沢競技場のブースのなかから、イスラエルの試合を見て「シュピーゲルという選手はいいネ」と、彼に話しかけたときだった。

「ハンガリーやチェコや、スペインでプレーした選手でしょう。名前だけは聞いていますヨ」と言うと、クラマーさんは、「シュピーゲルは、クバラみたいになるかもしれない。」と言った。
 その後、シュピーゲルはイスラエルの攻撃の軸となり、長い間、第一線で活躍した。

 残念ながら、そのクバラについては、実物は知らない。しかし、その変わった経歴は、私たち日本人には非常に珍しく思える。
 ラジスラブ・クバラは、1927年6月10日、ハンガリーのブタペストに生まれた。サッカーはフレンツェバロシュ・クラブではじめ、1946年、両親とともにチェコスロバキアのブラティスラバに移る。そして、19歳でスロバン・ブラティスラバと契約し、チェコ代表にも選ばれたが、1948年にはハンガリーに戻り、代表チームのインサイドとなった。2年後、1950年の欧州ツアーの際に、チームから離れて亡命する。ハンガリー協会は彼を追放処分にしたために、クバラはしばらく他の国でサッカーをすることはできなかった。
 しかし、1951年、スペインのバルセロナが、彼と契約してしまう。ハンガリー側の抗議もあったが、時が解決することになり、彼のプレーはスペインだけでなくヨーロッパで賞賛され、1953年、イングランド対FIFA選抜の試合で2得点を挙げ、ウェンブリーを沸かせた。

 例のエレニオ・エレラ監督で敗れた翌年のヨーロッパ・チャンピオンズカップ準優勝に貢献した。独特のフェイントによるドリブルの名手。シュートは格別で、ボールコントロールは素晴らしかったという。
 ハンガリーで生まれ、チェコで育った東欧のプレーヤーが、ラテンの“王国”スペインで大成した。
 東欧といえば、1950年代の“マジック・マジャール”の、あのハンガリー代表のプスカシュ主将が、プレーヤーの晩年をレアル・マドリーに置き、最後の花を咲かせたことも、また記憶に残る。


(サッカーダイジェスト 1989年6月号「蹴球その国・人・歩」)

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