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vol.21 ルーマニア


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 1989年後半の東欧各国の激変のなかでも、ルーマニアのチャウシェスクの独裁体制の崩壊はとりわけ劇的で、私たちにも大きな衝撃だった。そのルーマニアは、’90イタリア・ワールドカップに出場し、B組でアルゼンチン、カメルーン、ソ連と戦うことになっている。86年のトヨタカップでステアウア・ブカレストの高い技術を見せてもらった私には、イタリア南部のバリとナポリで展開されるルーマニアの試合も気になる一つだ。
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トヨタカップでの驚き

 86年12月14日の第7回トヨタカップで、わたしたちはステアウア・ブカレストとリバープレートの激闘を見た。アルゼンチンで最も有名なクラブ、リバープレートは、その年のワールドカップ優勝GKプンピードや、DFルジェリ、MFエンリケ、さらに78年W杯のアロンソ、ガジェゴ、ウルグアイの点取り屋、アルサメンディといった経験豊かなプレーヤーをそろえ、試合前の予想では断然有利とみられていた。結果は1−0でリバープレートが勝ったわけだが、国立競技場を埋めた6万2千人、また、約60ヶ国のテレビ観戦の人たちは、ルーマニア人の技術の高さと多彩な攻撃展開に魅きつけられたのだった。
 チーム主軸のベレシと欧州タイトル獲得の殊勲者、GKドゥカダン(PK戦で4本止めた)を故障で欠きながら、わたしは右サイドのラカトシュのフェイントやリベロのベロデディチの攻め上がり、そして、一人一人のボールの持ち方の柔らかさに感嘆しつつ、リバープレートの固い守りを決定的にくずせないところにベレシの不在を惜しがったものだった。

 彼らは85−86欧州チャンピオンズ・カップのチャンピオンだが、その決勝の相手は世界に知られたバルセロナ。試合場も同じスペイン国内、セビリアのサンチェス・ピスファン競技場。90分と延長30分を戦ってなお0−0、PK戦の末つかんだ優勝だったが、バルセロナに声援を贈った満員のスペインの人たちは、試合のあとウイニング・ランをするステアウアのプレーヤーに立ち上がって拍手を贈ったという。彼らのプレーには、ラテンの洗練さと田舎の土くささが同居し、リッチなクラブのリッチなプロフェッショナルとは違った素朴さがあって、どこか相手側ファンにも健気さを感じさせる。そんなところがスペインのサポーターにもふれたのだろう。


歴史家・堀米先生のブカレスト

「(ルーマニア生まれの作家)ゲオルギュウが(彼の小説) 『二十五時』の中で描いているブカレストは、ひどく西欧的である。来てみてなるほどと思う。これは意識的にパリを模してつくられた都市である。小規模ながら凱旋門まであるのだから徹底している。  だがさすがは平原都市だけあって、目抜き通りの広さはパリどころではない。
 建物にもパリのそれを模したものが少なくなく、たとえば、私の泊ったアテネ・バラスト・ホテルもアンペリアール風だったし、またそれに近い音楽アカデミーの建物は(パリの)オペラ座にそっくりであった。
 こういえば、ブカレストは東ヨーロッパの小パリということになるが、こうなった理由のひとつは、第1次大戦のフランスの影響にあるのであろう。しかし、歴史を遥か昔に遡ればルーマニアはロマニア、つまりローマ帝国の属州ダキアだったのであり、この時代に行なわれた植民の結果として東欧スラブ言語地帯の真中に、いまだにラテン系の言語を定着させてしまったことに無関係ではないであろう」

 中世史の大家であった故・堀米庸三(ほりごめ・ようぞう)先生の1971年の旅行の記録としてまとめられた『ヨーロッパ歴史紀行」(潮出版社)にある、この簡潔な一節は、私にヨーロッパの不思議さと複雑さを教え、バルカンとダニューブ河(ドナウ河)流域への夢をかきたててくれる。

 古代史によると、ドナウ河以北にトラキア人系の国を築いていたダキアが、紀元106年にローマ帝国に占領されたことがある。ローマはここに植民を図ったが、やがて3世紀に西ゴート族がこの地方に侵入すると、紀元271年には、ローマ帝国のアウレリアヌス皇帝はダキアからローマの領域を南方に撤収した。
 このとき、ダキア人の一部は南方へ移ったが、多くのダキア人はトランシルバニア山中で生存を続け、13世紀に再びダキア地方へ戻って、14世紀にモルダビア、ワラキアの二公国を築いたといわれている。

 この2つの公国は、同じころ、イスラムの大勢力となったトルコや、後の時代に南下してくるロシアの二大勢力、そして、西のオーストリア・ハンガリー帝国などにはさまれながら、ときに領土を増大し、ときには圧迫されながら、ついに1861年に両公国を合体。ブカレストを首都に、国名をルーマニアとする自治公国をつくり、列強の承認をへて1978年に独立。1981年には国王カロル1世のもとに、ルーマニア王国が成立した。


王子のバックアップで

 ルーマニアでサッカーが行なわれるようになったのは、この1880年代。ブカレスト地方にあるプロエシュティの油田で働く英国人技術者たちが始め、1899年にはブカレストでも試合が行なわれるようになった。
 1908年にナショナル・アソシエーション、つまり、全国を統括するサッカー協会が設立されるが、バックアップしたのがカロル王子。後にカロル2世国王となり、第2次大戦の際に退位するが、もともと王家は西ドイツ、プロイセンのホーエンツオレルン家の出だから、西欧とのつき合いも多く、スポーツやオリンピックといった考え方にも理解があったのかも知れない。自分でもボールを蹴ったという王子は、サッカー協会(ASSOCIATE CLUBRIBOR ROMANE DE FOOTBALL)の初代理事長に就任するというカの入れようだった。

 次の年に全国選手権がスタートする。オリンピア・ブカレストというクラブが初のチャンピオンになっているが、このオリンピアという名に、1896年(アテネ)に始まりパリ、セントルイス、ロンドンとすでに4度の大会を重ねたオリンピックへの傾倒が見られる。
 1910年には、王子はルーマニア・スポーツ連盟(FEDERATION SOCIETALILOR DE SPORT DIN ROMANIA)を創設し、自ら総務主事におさまり、サッカー協会もこの連盟に属する組織の一つとなる。

 こうしたスポーツ体制の整備も、1914年から4年間の第1次大戦で、しばらく活動は中断。サッカーの全国選手権も1917年から19年まで3年間、中止しなければならなかった。ただし、この第1次大戦で連合国側についたルーマニアは、パリの講和条約で大きな領土を認められる。それは、これまでルーマニア人の居住地域だと主張してきたトランスバニアはもとより、ベッサラビア、南ドブルジア、プュビナ、マラムシ、クリシャーナ、バナートらと合わせた「大ルーマニア」が実現した。


オリンピックにもW杯にも

 第1次大戦終結で平和の到来とともに、近隣との国際試合が始まる。1922年にはベオグラードへ出かけて、ユーゴとの試合、最初のインターナショナル・マッチは2−1で勝利した。
 オリンピックの参加も、1924年の第8回パリ大会が最初。参加45人の選手用のほとんどがサッカーとラグビーで占められていた。ついでながら、ルーマニアは東欧では珍しく、早くからラグビーが存在する地域。これはフランスの影響だろう。ただし、このときルーマニアは、3−61という記録的な大差でフランスに負けている。
 サッカーは1回戦でオランダと当たったのが不運で0−6と大敗。大会はウルグアイが初参加初優勝で話題をさらった。ルーマニアにとっては、初めての西欧の高い水準、世界のレベルに接した大会だった。
 1930年の第1回ワールドカップにはるばる南米のウルグアイまでルーマニアの代表が出かけたのも、国王となったカロル2世のお声がかりだった。大西洋を船で旅し、ヨーロッパからウルグアイへ行くには、日数と大きなお金が必要で、そのため、欧州から参加したのはフランス、ベルギー、ユーゴ、ルーマニアの4ヶ国にすぎなかった。成績は1次リーグ第3組でペルーに3−1で勝ち、開催国ウルグアイに0−1で敗れて2位にとどまり、準決勝に進めなかった。しかし、第1回W杯の参加国という栄誉ある記録は消えることはない。

 次の1934年、イタリアで開催された第2回W杯にも参加。29ヶ国と参加国が増えて、地域予選でユーゴを破っての本大会出場だったが、いきなり強豪のチェコと当たって1−2で敗退した。チェコは中部ヨーロッパきっての強チームで、この大会でも決勝まで進み、イタリアと延長の末1−2で敗れて準優勝となった。
 フランスでの第3回W杯(1938年)は、1回戦で新興キューバに敗れるという不本意な結果に終わったが、W杯への連続参加は国内のサッカーの普及に拍車をかけ、全国リーグは1部14チーム、2部14チームで行なわれ、サッカーはルーマニアでもっとも大衆的なスポーツとなった。


ティミショアラの優勝

 第2次大戦前のルーマニアサッカーで、もう一つふれておきたいのは、全国選手権(リーグ)で1922年から39年までの18年間にティミショアラの2つのチーム、キネスールとリペンシアが合計11回優勝していることだ。
 ティミショアラは、第1次世界大戦前はオーストリア・ハンガリー帝国に属していた。大戦後の講和条約の所産としてルーマニアへの割譲となったのだが、ハンガリー系住民が多く、それだけに、中央に対する対抗意識も強かった。そんな地域の代表として、ティミショアラのクラブチームが強いチームをつくり上げ、首都ブカレストや、その他の地域のクラブを制したのだろう。そして、このことは昨年暮にチャウシェスク打倒の口火を切ったのがティミショアラ市民の大デモであり、このデモに対して治安部隊が銃撃して多数の死者を出したことが、全国的に反体制の高まりをみて、ついに独裁制を倒したことと、無縁ではないだろう。

 ナチス・ドイツのポーランド侵略に始まった第2次大戦(1939−45年)で、ルーマニアははじめドイツ側に加わり、途中でソ連軍がブカレストに入城する事態を招き、後に連合軍(英米ソ)側となって、ドイツと戦うという経過をたどる。戦後の1947年に王制が廃止され、人民共和国となった。
 他の社会主義国と同じように、ソ連にならってスポーツを奨励し、組織の拡大、充実、施設の整備を政府が積極的に進める。戦前からのクラブはいくつかは名を変え、また新しい職域クラブ、企業(国家企業)のなかのスポーツクラブが生まれた。


東欧独占のオリンピックで

 オリンピックへの再登場は、1952年のヘルシンキ大会から。このときはマイティ・マジャール(偉大なマジャール人)といわれたハンガリーと1回戦で当たり、1−2で惜敗した。このヘルシンキ以来、約30年、オリンピックの金メダルは東欧社会主義国の独占が続く。社会主義の成果をスポーツで世界に見せようと、国の積極的なバックアップを受けるナショナル・チームには、南米や西欧のアマチュアの選抜チームでは勝てないのも当然。なにしろ、1952年の五輪チャンピオンのハンガリーは、1953年にサッカーの本家、スター軍団のイングランド代表と対戦し、6−3のスコアで撃破するほど高水準だった。

 FIFA(国際サッカー連盟)はワールドカップに出場した東欧プレーヤーのオリンピック参加を禁止したが、それでも東欧勢はオリンピックで猛威を奮った。1984年のロサンゼルス大会からプロの参加が認められ(同時に、このときはソ連、チェコ、東ドイツのボイコットもあって)、フランスとブラジルの決勝となるまで、つまり、ヘルシンキからモスクワまでの8回大会のうち、東欧以外でメダルを得たのは、スウェーデン(52年・ヘルシンキ)、デンマーク(60年・ローマ)、日本(68年・メキシコ)の3国だけ。
 こうしたオリンピック・サッカーでの東欧諸国の華やかさの中で、ルーマニアだけがただ1国、1度もメダルを獲得していない。他の強力な東ヨーロッパ勢と地域予選を戦うという、組合せのハンディはあったが、ファンにとっても、いささか残念なことだった。  対外成績を重視する共産党の中央政府では、ある時期「サッカーがなかなか勝てないのなら、いっそ、強化の重点を卓球などに振り代えてはどうか」という意見が真剣に論議されたこともあったという。

 1964年の東京オリンピックには、予選でデンマーク、ブルガリアを抑えて本大会に出場。本大会は1次リーグでメキシコを破り(3−1)、東ドイツと引き分け(1−1)、イランに勝って(1−0)、この組の2位でベスト8に残ったが、ここで当たったのがハンガリー。大会の得点王となったベネを擁するハンガリーの破壊力に2ゴールを奪われ、ベスト4進出はできなかった。
 そんなオリンピックでの不満を和らげたのが、70年のW杯。欧州第1組の地域予選でポルトガル、ギリシャ、スイスと組んだルーマニアは、3勝2分1敗で首位となり本大会へ。
 メキシコで行なわれた本大会は、ペレ、トスタン、リベリーノなどを擁するブラジルが3度目の優勝を飾った。また、この大会からカラー映像によって、メキシコの興奮がそのまま世界に届けられ、W杯が画期的なショーとなった。
 ルーマニアは、1次リーグでそのブラジル、前回チャンピオンのイングランド、さらには62年W杯2位のチェコと同じ組に入り、ベスト8進出はできなかった。しかし、0−1イングランド、2−1チェコ、2−3ブラジルと1勝2敗。新旧の世界チャンピオンとの負け試合は、いずれも1点差という健闘ぶりだった。


クラヨーバ大学とディナモ

 70年のW杯メキシコ大会での自信は、まず欧州のカップ戦に表われてくる。
 81−82欧州チャンピオンズ・カップでウニベルシタテア・クラヨーバ(略称ウニ・クラヨーバ)がベスト8に進んだ。1955年から始まった欧州の最も権威のあるこのカップ戦に、ルーマニアは56−57シーズンの第2回から参加しながら、上位進出できないでいたが、このときは1回戦でオリンピアコス(ギリシャ)を3−0、0−2で抑え、2回戦もコペンハーゲン(デンマーク)を0−1、4−0と退け、ベスト8まで進んだ。南欧、北欧のチームに勝てても、準々決勝の相手、バイエルン・ミュンヘン(西ドイツ)はさすがに強く、ホームでの第1戦を0−2で敗れ、アウェイでは1−1となって、ここで退くこととなった。

 ブカレストの西227キロ、ドナウ河流域平野に古くから発達した、人口17万人の市のこの大学チームは、若いだけに勢いづくと伸びるのも早い。次の年、82−83UEFAカップには準々決勝を突破してベスト4に入る。1回戦でイタリアの名門、フィオレンティーナ、2回戦でアイルランドのシャムロック、3回戦はフランスのボルドーと、いずれも伝統あるプロフェッショナルに勝ち、準々決勝は西ドイツのカイザースラウテルンにアウェイで2−3、ホームで1−0となり、アウェイゴールのルールで強敵を倒した。準決勝のベンフィカ(ポルトガル)戦は、アウェイで0−1と狙いどおりだったが、ホームで相手に1点を許し1−1の引き分け。今度はアウェイゴールの規則のために敗退した。


若手の台頭、ルチェスク監督

 記録のカベが破られると、そのあと新記録が続出する、というのは陸上競技などでみられる現象だが、大学チームのUEFAカップ・ベスト4は、次の83−84欧州チャンピオンズ・カップでのディナモ・ブカレストの準決勝進出になって表われる。
 2回戦で“天下”のハンブルガーSV(西ドイツ)を倒し、準々決勝でソ連のディナモ・ミンクスを破ったブカレストも、さすがに準決勝のリバプール(イングランド)には2戦2敗に終わった。こうした単独チームの活躍で、ルーマニアもいよいよ手強くなったことを、欧州各国が知ったのだった。
 このクラブチームの活躍の前、81年にオーストラリアで開催された第3回ワールドユースでもルーマニアは3位に入っている。1次リーグで韓国とイタリアに勝ち、ブラジルと引き分けてB組2位でベスト8に。準々決勝はウルグアイに2−1。準決勝で西ドイツに延長の末0−1で敗れたが、3位決定戦でイングランドを1−0で下し、大会でべストプレーヤー賞を獲得したガポールやDFのアンドーネ、レドニク、FWのバリントなどのチームは、欧州の専門家からも高い評価を受けた。

 おもしろいのは、この右ウイングのガボールやレドニク、アンドーネといったタレントたちがコンビヌル・フネドアラという無名チームの選手だったこと。  これらの選手たちはミルチア・ルチェスク監督(84年欧州選手権代表監督、現ディナモ・ブカレスト監督)によって発掘されている。70年のW杯の代表チームの主将だったルチェスクは、79年に現役を辞めたとき、ちょうど2部に落ちていたフネドアラのクラブの再建を頼まれ、選手兼任で監督を引き受けた。彼はすぐにこのチームを1部に引き上げるのだが、鉄鋼の町のこのクラブの若いタレントに目をつけ、彼の指導によってユース代表(そして、後にナショナルチーム)への道を開いたのだった。
 フネドアラの成功で、ルチェスクは代表チームの監督となり、84年の欧州選手権には地域予選を勝ち抜いて、フランスでの本大会へチームを導いている。彼は単に選手をピックアップするだけでなく、一人ひとり、技術、戦術を細かく指導した。前述のUEFAカップでのクラヨーバの躍進も、チームの5人が代表のメンバーとして、彼の指導を受けたのがブラスだったとされている。

 84年欧州選手権でルチェスク監督のルーマニア代表は、イタリア、スウェーデン、チェコと同じグループという厳しい地域予選を勝ち抜きながら、フランスでの本大会ではスペイン(1−1)と分け、西ドイツ(0−1)とポルトガル(0−1)に敗れて1勝もできなかった。しかし、世界が注目する、この8チーム集結の欧州選手権への登場で、ルーマニアがいよいよトップの国へステップを踏み出したことを知らされたのだった。

 そうした80年代前半の蓄積が、ついに86年のステアウア・ブカレストのチャンピオンズ・カップ優勝となり、そしてまた、90年イタリア・ワールドカッブ欧州第1組予選突破となった。88年10月19日に始まった第1組は、最終の89年11月15月、ルーマニア対デンマーク戦で決まるという緊迫した展開となり、この最終戦、引き分けでもよいデンマークが先制点を挙げて絶対的有利となったが、ルーマニアは3点を奪って逆転勝ちし、イタリアへの出場権を得たのだった。
 最終戦のメンバーをみると、ステアウアから8人、ディナモから3人、クラヨーバから1人(交代が2人も出た)となっていて、ステアウアのラカトシュやバリントも出場、バリントは2ゴールを決めている。

 ルーマニアのスポーツといえば、日本人の多くはモントリオール(76年)の妖精、ナディア・コマネチや、ロサンゼルス(80年)のサポーなど、女子体操を思い浮かべるだろう。女子陸上の走り高跳びのヨランダ・パラシュや、古いところでは卓球のアンジェリカ・ロゼアヌなども世界に君臨した。今後、世界で最も盛んなスポーツ、サッカーでも、ルーマニアはひとつの城を築くだろう。
 2つの大戦の戦火と大国の圧力、そして、それをくぐり披けるために生じた政治と経済の苦境、そんななかで、ルーマニアのサッカーは一歩一歩前進し、着実に実績を積み上げてきた。わたしは、この国のサッカー関係者に心から敬意を表わすとともに、イタリアで、彼らが見せてくれるプレーを楽しみにしている。


(サッカーダイジェスト 1990年3月号)

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