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外国プレーヤーを優遇

 もともとスペインは、とくに第2次大戦後は外国人プレーヤーを受け入れることで、それぞれのチームを強化し人気を高めた。
 遠い話ではなく、1970年代のネッツァー(西ドイツ)、ヨハン・クライフ(オランダ)、ニースケンス(オランダ)などの大スター、さらに82年には、あのマラドーナもバルセロナへ移ったし、ついにW杯に出ることのなかった西ドイツのシュスターも、ドイツで芽が出ると、すぐスペインに移ってしまった。

 現在では、この首位戦線を走る2強に、レアルには前記したシュスターが、昨年までのバルセロナから移籍して活躍しており、メキシコのウーゴ・サンチェスは“ゴールの狩人”として、“スペインの鷲”ブトラゲーニョとともに、チームの攻撃をしめくくっている。
 バルサでは、86年W杯の得点王、イングランドのリネカーが働き、なによりも、かつてバルサを優勝させたクライフが、こんどは監督となって、ふたたびレアルに対抗するバルサ時代を作りあげようとしている。

 今年から外国選手の枠が3人になったスペイン・リーグは、南米からアルサメンディ(ウルグアイ)、ルジェリ(アルゼンチン)らも今季から加わっている。来季には、クーマン(オランダ)もバルサ入りと伝えられている。
 こうした外国人の、とくに高い質のプレーヤーの導入は、ある時期はスペイン人プレーヤーの成長を妨げるという見方もあった。
 しかし、82年W杯を開催したのを期に、スペイン国産の選手たちは、次第にレベルアップしはじめている。84年ヨーロッパ選手権、86年W杯では、それがはっきり成績にあらわれてきた。スペインというところは、もともと外国人をうまく働かせるところといえるかもしれない。あの1492年のアメリカの大陸発見のコロンブスにしても、ジェノバ生まれのイタリア人である彼を、イサベラ女王が資金援助したおかげだった。
 レコンキスタ(キリスト教復活)でアラブの勢力を国から一掃したときにも、アラブ人の科学的な力、農業技術を生かしたという。バレンシア地方には、米の栽培のため、ひとつの村にアラブ人を何人か(全部追放しないで)が残って住むようにする法令があったそうだ。

 外国人プレーヤーの受け入れに積極的で、そのくせ、地方意識を守り、その対立意識がクラブ発展の、サッカー技術の発達のもとになっている―――。スペインという国は、やはりサッカーの面だけでも、何度も訪れてみたいところだと思う。


(サッカーダイジェスト 1989年6月号「蹴球その国・人・歩」)

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