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「カサブランカ」と「外人部隊」
年配の日本人にとってモロッコと聞けば、やはり映画の「モロッコ」――ハリウッドの大スター、ゲーリー・クーパーの若き日と、これも大女優マレーネ・デートリッヒの若い姿。素足で砂漠の砂を駆け、行進してゆく外人部隊を追うラストシーンを思い出されることだろう。あるいは第2次世界大戦直後に公開された「カサブランカ」。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが演じた第2次大戦下のモロッコ第1の大都市、カサブランカを舞台にした再会と別れ。フランスはナチス・ドイツに降伏し、全土が占領下にあった。フランスの植民地であったモロッコのカサブランカにもナチス・ドイツの手が及んでいる時期、その緊張感と日本のスクリーンに初登場したバーグマンの美しさが、いまも懐かしい。
アフリカ大陸の北岸、地中海に面した地方のチュニジア、アルジェリア、モロッコは古い時代から地中海文化の発達したところ。背後には広大な砂浜があっても、内陸部の手前の山々と地中海に挟まれた地域は雨量も適当にあって、農作物も育ち、地中海を航海するフェニキア人たちとの交流、さらにはローマ勢力の伸張などに刺激されながら独自の生活文化を育んできた。
7世紀になってイスラム教が興り、この宗教を奉じるサラセン帝国の拡張によって、彼らがマグレブ(西の最果て)と呼ぶこの地も勢力下に入り、さらにイスラムの勢いはモロッコから狭い海峡を渡り、イベリア半島へと広がっていった。
1492年にキリスト教徒のレコンキスタ(失地回復)の戦いでイスラムの王がスペインの名勝アルバンブラ宮殿を去ってから、イベリア半島は再びキリスト教、いわば西欧に入った。さらに今度は、産業革命によって力をつけたヨーロッパの勢力が、英国やフランス、スペイン、ポルトガル、ドイツなどの国という形で世界各地へカを伸ばそうとする。
アフリカも例外ではなく、19世紀の植民地政策の傷あとが今日も多くの問題を残している。モロッコでのフランスとドイツの勢力争いは19世紀末から1910年ごろまで(原住民たちにはまことに迷惑ながら)続いた。
サッカーという競技のルールが統一され、世界へ広まってゆくのはこうした時期で、19世紀末の英国の海軍力、海軍力による広まりが大きい。しかし、北アフリカにはフランス人によってサッカーは伝え広められている。
二つの国が一つの地域で勢力争いをするとき、土地の人たちを巻き込み、それらの暴動という形で相手方へダメージを与えることが多い。ウィルヘルム2世皇帝とフランス共和国の争いは、土地の人たちのフランスへの反乱という形となる。それを鎮定するためにフランスは自国の軍隊では手が足らず、“外人部隊”を編成する。
借金で身を持ち崩した男、失恋の痛手をいやしたい男、罪を犯して追われる男――兵士たちをテーマに創る映画は、不毛の地サハラという冷酷な舞台で、さらに引き立つことになる。
その外人部隊もモロッコやアルジェリアではサッカー普及に役立った。
(サッカーダイジェスト 1991年7月号より)