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独立と王室のバックアップ

 1900年、つまり20世紀になるかならぬかのころに、すでにモロッコの各地でボールは蹴られていたという。1916年には各地でリーグは始まっていたようだ。それを統括するモロッコ・リーグの設立が1923年。
 カサブランカに本拠を置くこのリーグはパリのフランス・サッカー連盟の承認を受け、1925年にはカップ戦も創設する。

 初期のリーグは『クルブ・アトレチコ・ド・カサブランカ』 『ユニオン・スポルティフ・マロケン(モロッコ=USM)』 『オリンピク・マロケン(OM)』などが強かった。
 こうした素地が作られたあとの1956年に独立国となり、サッカーはいよいよ盛んになる。そのサッカーを積極的に支援したのが王室――。現王室は、17世紀からこの地域に君臨していたアラウィット王朝の正統派。スルタン・ムハメド・ベンユーセフが1947年から独立運動を指導し、1956年に独立を達成したあと、ムハメド5世として即位。王が亡くなったあと、1961年、ハッサン2世が即位し、国民のスポーツとしてサッカーを積極的にバックアップした。

 市民にとって、スポーツの対抗意識はコミュニティの意識につながるように、国の代表チームのプレーを応援することで“国”という地域の連帯が生まれる。
 広大なアフリカが、驚くほどの早さでサッカーのアフリカ選手権(国の代表チームによる)の開催や、各国のチャンピオン・クラブによるアフリカ・チャンピオンズ・カップや、アフリカ・カップ・ウィナーズ・カップなどを設立・整備していったのは、サッカーがアフリカの大衆に根をおろしているのと同様に、各国政府もこうした大会への出場や参加をバックアップしたからだった。
 そんな対抗意識は、1964年の東京オリンピックへの出場という夢の実現となってあらわれる。残念ながら、このときのモロッコは1次リーグで2敗し、エジプトの準決勝進出やガーナのベスト8入りなど同じアフリカ勢の活躍を横目で眺めるだけだった。
 もっとも、このときは対戦相手がハンガリー(優勝)ユーゴ(優勝候補だったが5位)という東ヨーロッパの、オリンピックで最も強いチームだった…。

 檜舞台で強チームと当たった経験は、次の1970年メキシコ・ワールドカップで生かされる。前述の西ドイツとの対戦で、先制ゴールを挙げたジャリール・ホウマネは、この国のワールドカップ初得点者として記録に残る。
 1972年のミュンヘン・オリンピックに出場したモロッコは、1次リーグを突破したものの2次リーグで敗退するが、4年後のアフリカ・カップで優勝し、アフリカを代表するサッカー国となる。

 スポーツの奨励は地中海大会(メディ・テラニアン・ゲーム)の83年開催となり、そのときにカサブランカとラバトに、それぞれ65000人収容の大きな競技場を建設した。
 彼らの次の目標はロサンゼルス・オリンピック。参加申し込みが30ヶ国に達し、広大なアフリカ大陸で展開される予選はホーム・アンド・アウェイのノックアウト・システムで3代表を争う。このため一つひとつの試合が全く息の抜けない激戦続き。ここでモロッコは、まずギニアを1勝1分けで退け、続くセネガルも同じく1勝1分け。3回戦の相手ナイジェリアとは2試合とも0−0のドロー、PK戦でようやく代表の座をつかんだ。
 ロサンゼルスの本大会では、西ドイツ、ブラジルと同じ組となり、サウジアラビアには勝ったが2強には勝てずに敗退した。


(サッカーダイジェスト 1991年7月号より)

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