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企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫

 日本サッカー協会(JFA)の第11代会長に、犬飼基昭(いぬかい・ともあき)さん(66)が決まった。
 浦和レッズの責任者として経営に成功し、ビッグクラブへの基礎をつくり上げ、先代会長の川淵三郎キャプテンが強く推したといわれている。
 1942年(昭和17年)にサッカーどころの浦和市(現・さいたま市)に生まれ、浦和高校、慶応大学、三菱重工とアマチュア選手としてのエリートコースで育ったサッカー人であり、大会社でのビジネスでもサッカーのクラブでも重責を重ねてきたこの人の舵取りで、日本サッカーのもう一段のステップアップを期待することになる。

 さて、『このくに と サッカー』の今号は、第7代JFA会長、島田秀夫さん(1915〜2005年)です。
 島田さんは会長としての任期は2年(1992〜94年)だったが、サッカーとのかかわりは長く、企業チームの三菱重工のサッカー部部長として自らのチームを日本のトップに押し上げ、アマチュアながら人気度ナンバーワンといわれていた。犬飼さんもこのとき、三菱の選手だった。
 76年のJFA改革のときから理事となり、80年に副会長に就任して平井富三郎、藤田静夫両会長を支え、長沼健、岡野俊一郎、川淵三郎たち若い幹部の成長を見守った。会長在任中、Jリーグを開幕させ、日本サッカーは開花の一歩を踏み出した。
 今回は、その島田さんの若いころ、人生の前半部を眺めることに――。

 小学校は東京高等師範付属、中学も同じ付属中学校(現・筑波大学付属高校)だった。サッカーが盛んな学校で、早いうちからボールを蹴り、中学校に入ると蹴球部へ――。
 日本サッカーに大変革をもたらしたチョー・ディンが、付属中学校へたびたび指導にやってきたこともあり、関東の中学の中で付属はテクニックの高さでずば抜けていた。27年の第8回極東大会(上海)30年の第9回極東大会(東京)の日本代表でも付属の卒業生が活躍している。
 島田さんは42回生(33年卒業)。ここの「60周年誌『付属中学サッカーのあゆみ』(84年発行)を見ると、当時の試合記録のメンバー表には島田さんの名は見当たらない。サッカーの盛んな同校では1学年に20人もいたという、その頃としては常識外れの大所帯の部で、島田さんには公式試合の出番はなかったらしい。5年生(旧制中学の最上級生)になって、試合に出なくても練習を続けるところが島田さんであり、そういう部員のいるところがいい運動部の証でもあるが。島田さんの努力は、水戸高等学校(現・茨城大学)へ進んでから花開くことになる。


インターハイで活躍

 1920年(大正9年)に開校した水戸高等学校(水高)は広大なグラウンドを持ち、スポーツも盛んで、21年に大日本蹴球協会が設立されると水高はすぐに加盟申請し、第1回全国優勝競技会(現・天皇杯)の関東予選にも参加している。高師付属中学からも多くの先輩が水高に入ったが、第9回極東大会のFWとして有名な春山泰雄さん(付属33回生)もその一人。36年(昭和11年)のベルリン・オリンピックでCDFを務めた種田孝一さんは付属でなく、東京府立五中の出身で水高から東大へ進んでいる。
 1年生のときに全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)で島田さんと水高イレブンは準決勝に進んで、岡山の第六高等学校(六高、現・岡山大学)に敗れた。
 次の年も2回戦で六高に敗れて退いた。その翌年も2回戦止まりだったが、守備的MFやセンターハーフとして活躍した。


企業チームの部長として

 大学は東大でなく東北帝国大学(現・東北大学)を選んだ。水戸という徳川御三家の城下町の次は、伊達政宗が築いた城下町だった。
 大学を卒業して三菱重工に入社して、次の年に陸軍へ。経理学校の試験に通って主計中尉で終戦を迎えたが、日本へ帰還する前にシベリア抑留の苦難があった。
 1947年(昭和22年)にようやく帰国して、三菱重工に復帰した。この会社のサッカー部は52年に新三菱重工業神戸本社で誕生した。島田さんたちと同世代のインターハイで活躍した岡野良定(1917〜2008年、広島高校→京大)が中心となってチームをつくり、関西実業団リーグに参加していた。
 会社の機構改革、本社の東京移転を機に、58年にサッカー部も東京に移った。
 64年の東京オリンピックの成功を受けて、翌年、日本サッカーリーグ(JSL)が初の全国リーグを開催、三菱重工は関東の古河電工、日立本社、東海の豊田自動織機、名古屋相互銀行、関西のヤンマーディーゼル、中国の東洋工業、九州の八幡製鉄とともに企業8チームによるリーグに加わった。
 島田さんはこのときから三菱重工サッカー部の部長となって、岡野良定監督(後に総監督)とのペアで、チームの強化を図る。
 リーグ2年目に杉山隆一(立教大)を加え、それ以後も優秀選手を補充して人気ナンバーワンのチームとなった。
 この三菱重工はJリーグ発足のときに浦和にホームを移し、現在の浦和レッズになる。  これらについては別の機会に触れたいが、名門中学のサッカー部でレギュラーでなくても5年間やりとおした島田さんの若い時代を眺めると――あらためて副会長時代の協会批判をやんわり受け止めていた姿、会長となってからパーティーの席上などで「先輩たちが苦労されたあと、私が今、華やかな場に立つことになって……」と謙虚に語っていたのを思い出すことになる。


島田秀夫・略歴

1915年(大正4年)6月27日、岡山県生まれ
1928年(昭和3年)東京高等師範付属小学校を卒業。同付属中学校に入学
1933年(昭和8年)同校を卒業。水戸高等学校(現・茨城大学)に入学
1934年(昭和9年)第11回全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)にHB(守備的MF)で出場。1、2回戦、準々決勝に勝って、準決勝で第六高等学校(現・岡山大学)に1−6で敗れた
1935年(昭和10年)第12回全国高等学校蹴球大会2回戦で、またまた六高に敗れた
1936年(昭和11年)1月、第13回全国高等学校蹴球大会2回戦で、北大予科に敗れた
           4月、水戸高校を卒業し、東北帝国大学(現・東北大学)へ
1940年(昭和15年)同大法科を卒業
           4月、三菱重工業に就職
1941年(昭和16年)兵役
1945年(昭和20年)戦争終結、シベリア抑留
1947年(昭和22年)シベリアから帰国
1948年(昭和23年)三菱重工に復職
1965年(昭和40年)日本サッカーリーグ(JSL)創設、三菱重工サッカー部が参加。部長・島田秀夫、監督・岡野良定
1969年(昭和44年)三菱重工総務部長に就任。団長として同サッカー部の東南アジア遠征に
1975年(昭和50年)同サッカー部部長を退く。この間、JSL優勝3回、天皇杯優勝3回
1976年(昭和51年)日本サッカー協会(JFA)の新体制に伴い、理事に就任
1980年(昭和55年)JFA副会長
1981年(昭和56年)三菱重工副社長
1992年(平成4年)第7代JFA会長
1993年(平成5年)日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)がスタート
1994年(平成6年)JFA名誉会長
2005年(平成17年)11月3日没


★SOCCER COLUMN

JFAの良き伝統
“日本サッカーの父”デットマール・クラマーは、こんなことを私に言った。
「今、世界のサッカーは巨大なビジネスとなり、大きな金が動く。そのために各国の協会でもビジネスマンのトップが多くなる風潮がある。ドイツでも、そういう時期があった。その中で日本ではサッカーを愛するサッカー人が、JFA会長を務めるという良き伝統があるのはまことにうれしい」
 そういえば、JFAは第4代の野津謙さんからプレーヤー会長が続いている。第5代会長の平井富三郎さんは自身はサッカーをしなかったが、旧制東京高等学校、東大の学生時代からの親友、篠島秀雄さんの“遺言”によって会長を引き受けた。いわば名選手だった篠島さんの身代わりだった。
 クラマーのいう、良き伝統が今後も続くのかどうか――。


(月刊グラン2008年9月号 No.174)

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