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マルコ・ファンバステン(1)88年欧州選手権得点王となった現代に続く大型FWの先駆け

 この「我が心のゴールハンター」の連載では、これまでにフェレンツ・プスカシュ(ハンガリー代表/ホンベド、レアル・マドリード)ミシェル・プラティニ(フランス代表/ナンシー、サンテチエンヌ、ユベントス)マリオ・ケンペス(アルゼンチン代表/ロサリオ・セントラル、バレンシア)ゲルト・ミュラー(西ドイツ代表=当時、バイエルン・ミュンヘン)の4人を紹介してきた。
 プスカシュは1950年〜60年代に、プラティニは70年代後半〜80年代に、ケンペスは70年代後半〜80年代初めに、ミュラーは60年代〜70年代に、それぞれ活躍した。
 プスカシュは私より3歳若く、いわば同世代で、多くの読者にはいささか古い話だったかもしれない。また釜本邦茂(日本サッカー協会副会長/メキシコ五輪得点王)と同世代のミュラーにしても、彼より少し若いケンペスやプラティニにしても、いわゆる団塊の世代の皆さんには懐かしい選手だったろうが、新しいファンの方にはいかがだっただろうか。

 さて5人目は――マルコ・ファンバステン。
 88年欧州選手権で得点王となり、オランダ代表に初のビッグタイトルをもたらした“ニュー・ミケルス・チーム”――つまり“新しいオランダ代表”のストライカーだ。
 私にとって、ファンバステンは“口惜しい”選手である。何がと言うと、その88年のスーパーゴールを生で見ることができなかったからだ。
 どういうわけか私は、良いゴールの場面に数多く巡り合えている。“王様”ペレの17歳のときのスウェーデン戦(58年ワールドカップ決勝)は、もちろん見たわけではないが、彼がサントスの一員として来日したときに国立競技場で、同じ型の「タイミングを2つずらしてのシュート」を見せてくれた。マラドーナの86年ワールドカップの「5人抜き」も見た(自分のカメラでも写した)。ミュラーも、ケンペスも、プラティニも、その最盛期のプレーをナマで見た。あのブラジルのロナウド(ルイス・ナザリオ・ジ・リマ)の98年の悲嘆と02年の歓喜のゴールも見た。釜本も、日本サッカーリーグの初ゴール、200と201得点、そして彼が“脱皮”を証明した68年のアーセナル戦のダイビングヘッドも見た。
 ところが、である。欧州選手権がそれまでと形を変えて決勝大会を8チームで行なうようになった80年から、84年、92年、96年、2000年(96年から16チーム)と毎回のように大会に足を運びながら、88年西ドイツ大会だけは、新しい企画会社の仕事のために現地へ行けなかった。そのときに、ファンバステンがスーパープレーを演じたのである。良いプレーヤーの良いプレーを見て、それを活字で伝えることが楽しみである私にとっては、この88年の欧州選手権・西ドイツ大会は、今も心のしこりとして残っている。

 残念なことにファンバステンは、オランダのクラブで、さらにACミランで数々の実績を残しながら、オランダ代表では目立っていない。
 88年の華やかさから見て、また実力の上からも、当然、90年ワールドカップ・イタリア大会でオランダは優勝候補に挙げられていたが、開幕直前まで選手たちの調子がそろわずに、第2ラウンド1回戦で西ドイツに敗れてしまった。ファンバステン自身も不調で、今度こそ…と楽しみにしていた私にはがっかりだった。
 ACミランの一員としてやってきた第10回トヨタカップ(現・クラブワールドカップ=89年12月17日)第11回トヨタカップ(90年12月19日)には連勝して、非公式ながらクラブ世界ナンバーワンとなったが…。89年の対ナシオナル・メデリン(コロンビア)での彼は期待外れ、90年の対オリンピア(パラグアイ)はまずまずというところだった。

 89年の11月に、ACミランを訪ねたのも、88年の“心残り”を解消するためだった。この時のインタビューと、サンシーロ(ジュゼッペ・メアッツァ)スタジアムで見せてくれたボレーシュートの美しさで、わずかに渇きを癒された感じはしたのだが…。
 それでも、ヨーロッパではファンバステンへの人気は、不思議なくらい今も高い。99年に、ある雑誌が『20世紀のベストストライカー』で、ペレやマラドーナやミュラーを押さえて、彼をトップに持ってきたこともあるほどである。
 20年前に現れた188cmの身長、現代のストライカーの先駆けともいうべき彼について、次回から皆さんとともに眺めていくことにしたい。


(週刊サッカーマガジン 2007年10月9日号)

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