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マルコ・ファンバステン(4)宿敵・西ドイツをも沈めたすべてのゴールに感嘆

 ヨーロッパでフォトグラファーとして活躍している沢辺克史さんが、ひょっこりと芦屋(兵庫県)の私の仕事場へとやってきて、3時間ばかりおしゃべりをした後に、「明日、飛行機に乗るので」――と帰っていった。
 すでにヨーロッパでも高い評価を受けている彼だが、私は88年ヨーロッパ選手権のときに、ナウマン・アンド・ゲーベル社が出版した写真集、「FUSSBALL EM88」(ドイツ語で、欧州サッカー選手権)で、彼の作品が多く取り上げられているのに強い印象を受けたのを、今でも覚えている。この大会で世界を驚かせたマルコ・ファンバステンが、久しぶりの沢辺氏とのおしゃべりの主要な話題だったことは、言うまでもない。

 さて、そのファンバステンの連載は、今回で4回目(前号は、番外編で日本対エジプト戦から)。前回まで、彼のアヤックス時代からACミランへの移籍、そしてEURO88へとたどってきた。今回は、いよいよイングランド戦のハットトリックから――。

 ヨハン・クライフの世代でも、世界のタイトルや72年、76年のヨーロッパのタイトルにも届かなかったオランダ代表が、再びリヌス・ミケルス監督の下に、新戦力を結集して挑んだEURO88は、グループリーグの初戦でソ連に0−1で敗れた。前年、ACミランに移ったファンバステンが故障でシーズン終盤にようやく復帰。この大会の第1戦にも、スターティングラインアップではなく、途中からの交代メンバーとして出場した。
 そんな彼が、第2戦の対イングランド戦でハットトリックを演じたのは、多くのコメンテイターにも驚きであったと同時に、喜びでもあった。
 ある英国の記者は、82年ワールドカップのパオロ・ロッシ(イタリア代表、大会の優勝メンバーであり、得点王)の復活さながら――と記したが、6月15日、デュッセルドルフでの彼の復活と、ファインゴールのアピールは、彼自身とオランダ代表、そしてEURO88そのものが歴史に輝かしいページを残すための第一歩となった。
 1点目は23分、左サイドを突破したルート・フリットが、得意の右足アウトサイドで、エリア内、ゴール正面のファンバステンにパス。ゴールを背に、このボールを右足で止めた彼は、前を向き、相手DFを右足かかとでの切り返しで、左へかわし、左足でシュートを右下隅へ決めた。走り込みからの停止、ボールのトラップ、反転、切り返し、そして大きくボールを押し出しての左足シュートの一連の動作の美しさと、早さと大きさは、まさにファンバステンのプレーだった。

 同点とされたあと、71分に2点目を奪う。相手DFを押し込んだ形となり、フリットが相手防御ラインの近くでのキープからスルーパスを送り込み、中央、左寄りにいたファンバステンが、左へ流れるようにトラップして左足シュート。ボールはゴール右下隅へ入った。
 75分、イングランド側の希望を絶つ3点目は、右CKから。エルビン・クーマンが蹴り、ビム・キーフトがヘディングでファーポスト側へ流し、落下点でファンバステンがボレーシュートを決めた。ボールのコースにニアからフランク・ライカールト、キーフト、フリット、ファンバステンとずらりと長身が並ぶオランダのCKは、空中戦に強いはずのイングランドのDFにとって重荷となっていた。

 サッカーの母国を破って勢いに乗ったオランダは、第3戦でアイルランドの堅い守りに手を焼きながらもキーフトのヘディングによるゴールで勝ち、準決勝へ進出した。相手はライバル・西ドイツ。6月21日、ハンブルクでの対決は、オランダ代表にとってはまさにリベンジのとき。74年ワールドカップ、ミュンヘンでの戦い(●1−2)は、ゲルト・ミュラーに決勝ゴールを奪われ、EURO80、ナポリでの対戦(●2−3)は、ベルント・シュスター(現・レアル・マドリード監督)やクラウス・アロフスの若い力にしてやられた。
 今度の西ドイツもいいメンバーだったが、オランダの方が揃っていた。何より、ストライカーにファンバステンがいた。0−1からのロナルド・クーマンの同点PKは、ファンバステンがマーク役ユルゲン・コーラーのファウルで倒されたもの。決勝ゴールもファンバステンのシュートだった。ヤン・ボウタースからのスルーパスに合わせたダッシュで、追走するコーラーよりも一瞬早く、右足のダイレクトシュートでゴール左下隅へ決めた。走り込みながらスライディングまでの見事な動作と、深い角度を決めたシュートそのものは、後々まで語りつがれることとなった。
 そして6月25日。ミュンヘンでの決勝、ソ連との大一番でも彼は、その力と技を見せつけることになる。


(週刊サッカーマガジン 2007年11月13日号)

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