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【番外編】永井雄一郎 永井のゴールに、彼の昔からのゴールへ向かう姿勢を見た

「記憶に残るストライカー」の連載をはじめたおかげで、その一人ひとりの最盛期のプレーを振り返り、当時の記録を調べ、記事を読む楽しみが増え、時間を忘れてしまう。そうして、もう一度作り上げたイメージを書き上げる喜びは格別のものだが、それでも目の前のテレビで日本のチームがアジアナンバー1を懸け争う試合の迫力には及ばない。
 まして、浦和レッズである。優勝チームが「TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップ ジャパン」(12月7〜16日)にアジア代表として出場することは、選手やサポーターに大きな喜びであり、励みになるだろう。まずはアジアチャンピオンおめでとう。

 浦和の前身の三菱重工サッカー部が日本のアマチュア時代のトップリーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」で優勝を争った頃――杉山隆一、横山謙三、片山洋(いずれもメキシコ・オリンピック銅メダリスト)あるいは、今のクラブの藤口光紀社長たちが活躍していた頃――いや、その70年代よりも、まだ遠い昔に、クラブの主(ぬし)とも言うべき岡野良定さんが、三菱重工神戸造船所でプレーしていた50年代――その頃から、取材してきた私としてはマルコ・ファンバステンの連載もさることながら、浦和へのお祝いを兼ねた番外編を、ということになってしまう。
 決勝を含めて、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループステージからの浦和の12試合が、5勝7分けであったことは、このタイトルを取る道程の厳しさと、浦和の「負けない」強さを示したと言えるだろう。

 タイトルの獲得についてはクラブのACLに対する取り組み方や、サポーターの応援(というより一体化)、もちろん選手層の厚さなどいろいろ良い点が重なっているのだろうが、私は浦和の個々の選手たちが、ボールを奪い合う「1対1」の戦い方で負けない強い気構えを持ち続けていたことが大きいと思っている。
 日本のサッカーは、個の劣勢を組織でカバーすることが常識になり、そのための“動きの量”が要求されるのだが、1対1になっても“負けないぞ”という気持ちがなければ、多数防御も、運動量も、結局は砂上の楼閣になりかねない。この点で浦和は、国内の試合でもACLでもその姿勢を持ち続けてきたようだ。
 04年に闘莉王を加えて、チーム全体がディフェンスに回るときに、特にその気配が強くなってきた。
 アウェーで“負けないで帰ってくる”という強さも、そうした個々の気持ちを基礎にしてのことだろうと察している。

 14日の試合の先制ゴールは永井雄一郎が決めた。彼は浦和で10年のキャリアを持っていて、97年にデビューした頃は、同年代の城定信次とともに注目され、スピード突破とシュートを期待された。そのあとドイツでプレーする期間があって、浦和の若手と言えば小野伸二がもっぱら話題となったが、03年4月16日の日本対韓国戦(韓国・ソウル)で初めて国際Aマッチに出場した永井が、唯一のゴールを決めて、ジーコ監督下の日本代表の初勝利を演出した。
 得点そのものは、彼が突っかけて、相手DFが防ごうとした足にボールが当たってゴールへ入るというラッキーなものだったが、このときアウェーで韓国の勢いに圧迫されている中で、前に出よう、ゴールに向かおうとする彼の姿勢に私は強い印象を受けた。彼が24歳のときだった。その後、浦和ではエメルソンやワシントンといった主力ストライカーとともにFWを担い、フル出場でなくても、重要なゴールに関わってきた。

 テレビで映ったゴール場面は、1点目が相手DFの裏へ彼が動き、ポンテからのパスがDFに当たって方向を変えるという幸運も利して、ノーマークのシュートでGKモハマディの頭上を抜いている。
 71分の2点目はワシントンの落としを受けて永井がシュートし、GKが防いだリバウンドを阿部勇樹がヘディングで押し込んで決めたのだった。
 先制ゴールの後、相手の攻勢に押し込まれながら、1対1での粘りとカバーリングで防ぎ続けた。2点目を生んだこちらのチャンスのCKのときは、相手が、守りに戻らなくなっていた。その手薄を突いてのパスの運びも見事だった。堅く守って、相手の守りの手薄なところを突いてゴールする、国内での試合のやり方そのままだった。
 そして、ノーマークシュートを決めておくことが試合を左右するということを、あらためて見せつけたACL決勝でもあった。このチームでうれしいのは、目に見えて腕を上げるプレーヤーが多いことだ。決勝には出ていなかったが、キャプテンの山田暢久のある時期の伸び方がまさにそれだが、世界の舞台への道が開けたことで、個人力アップの面でもこのクラブは大きなチャンスをつかんだと言えるだろう。


(週刊サッカーマガジン 2007年12月4日号)

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