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ロナウド(1)何度も故障し、それを克服。再び横浜に登場する

 12月7日から16日まで東京、横浜、豊田の3会場で開催される「TOYOTAプレゼンツ FIFAクラブワールドカップ ジャパン2007」に、アジア代表として浦和が出場することになった。
 国内の関心も一気に高まったのは当然――すでに浦和サポーターの応援ぶりは、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)で知られているが、欧州、南米のメディアにも、その目で見てもらえるのが楽しみの一つ。
 日程からいけば、浦和が2回戦に勝てば準決勝でミランとあたる。レッズイレブンにとって、いささか期するところあり――というところだろう。
 そのミランの攻撃の中心は、言うまでもなく、若いカカー(本名リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ)だが、彼とともに大ベテラン、ロナウド(ルイス・ナザリオ・ジ・リマ)の来日が伝えられるのもうれしいことだ。

 06年ワールドカップで日本と対戦したときには、前半終了間際に、同点ゴールを決め、1−0のリードでハーフタイムを迎えたい、日本サポーターの願いを打ち砕いた。しかし、この大会では調子は上がらず。大会後、レアル・マドリードからミランに移ったものの、ケガを再発し、今シーズンは戦列を離れていた。
 イタリアのメディアの中には、ロナウドを“高い買い物”などと言うものもいるようだが、ワールドサッカーマガジン誌12月6日号のインタビューで、「万全の準備で日本へ向かう」とリハビリが順調なことを語っている。
 横浜は、02年ワールドカップの決勝で、彼が2得点を挙げてドイツを破って、ブラジルに5回目の優勝をもたらすとともに、彼自身が4年前のフランス大会決勝で味わった残酷な敗戦の雪辱を遂げた、いわば“喜びの地”――。
 彼の復調を願うものにとっては20世紀から21世紀にまたがって活躍したロナウドのサッカー人生の晩年の大仕事を、横浜で見たいところだ。
 その日を待ちつつ、「心に残るストライカー」の6人目として、ロナウドのシリーズを始めたい。


 1976年9月22日生まれのロナウドは、フランチェスコ・トッティ(76年9月27日・イタリア、ローマ)ルート・ファンニステルローイ(76年7月1日・オランダ、レアル・マドリード)ミヒャエル・バラック(76年9月26日・ドイツ、チェルシー)たちと同年。日本の中田英寿(77年1月22日)より早く生まれ、イングランドのデビッド・ベッカム(75年5月2日)より1歳若い。
 中田は早々と檜舞台から去り、ベッカムも米国へ移り、トッティも代表を退くことになった。ロナウドはこれらの同世代の中で、最も早く有名になり、FIFAのワールドプレーヤー・オブ・ザ・イヤーの96年、97年度の受賞をはじめ、数々の栄誉と富を手にしている。その彼が、31歳のいまなお故障の回復を待って、トップレベルの戦場でプレーを続けようとするところに、彼のサッカーへの愛情と楽観主義、忍耐心を見ることができる。

 ブラジルの多くの子どもたちと同じように、彼は貧しい環境の中でボールを蹴った。リオデジャネイロのペニト・リベイロ地区で育ち、ビッグクラブのテストを受けに行くために乗るバスの切符を買うお金ができなかったために、近くのクラブでプレーすることになったという話が伝わっている。91−93年、14〜16歳までいたサンクリストバン・クラブで54試合に出場し、36ゴールを記録すると、クラブは彼をベロオリゾンテのクルゼイロに売った。
 クルゼイロでも得点力は異彩を放ち、93−94シーズンで60試合58得点。
 レベルが上がるごとに自力を上昇させる若いストライカーを、世界が見逃すはずがない。オランダのPSVが94年にロナウドと契約を交わした。
 すでにブラジル代表からお呼びがかかっていた。94年の米国ワールドカップのブラジル代表に加わった彼は、ロマーリオ、ベベットの2人のFWの陰にいて出場の機会はなかったが、母国の24年ぶりのタイトル奪還を目の当たりにした。

 オランダは、アヤックス、フェイエノールト、PSVといった3つのクラブが規模も大きく、強い。したがって腕のある若者がビッグクラブに入れば、ここを足場に、技と体力を磨き、オランダ流の組織プレーを理解しつつ、自分の値打ちを高めることのできる恰好の場である。
 PSVの2年間で、56試合55ゴールを稼いだストライカー、そしてオランダカップの優勝に輝いたストライカーを欧州のビッグクラブが争い、バルセロナが96年に彼を獲得した。  ここからひたすらゴールを奪い続けるストライカー・ロナウドの、目もくらむ大成功と、それに抗う、故障との相剋、そして不死鳥のストーリーが始まる。


(週刊サッカーマガジン 2007年12月18日号)

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