賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ロナウド(2)98年W杯を多くのメディアが「ロナウドの大会」と予想したが…

ロナウド(2)98年W杯を多くのメディアが「ロナウドの大会」と予想したが…

 98年のワールドカップ・フランス大会は、大会の創始者ジュール・リメの母国での開催であり、初めての32チームによる大会でもあった。私たちにとっては日本代表チームが初めてアジア地区予選を突破して、本舞台に進出した記念すべき大会だったが、ヨーロッパの話題の中心は、もっぱらブラジル人の若者ロナウドだった。

 大会直前にフランスに到着して、新聞や書籍の売り場で、ロナウドのフォトと記事の氾濫を見た。スポーツ専門誌、サッカー専門誌はもちろん、ロンドンタイムズまでもが、別冊「ロナウド特集」を発行していた。
 このとき彼は21歳――前号で触れたとおり、ブラジルでの少年期を経て、94年にPSV(オランダ)に移り、その最初のシーズンでオランダリーグ(エールディビジ)の得点王(33試合30得点)となり、次のシーズン(95−96年)はヒザの故障で13試合12得点にとどまったが、オランダカップ優勝に貢献。PSVは高額を示したバルセロナ(スペイン)に、ロナウドを売り渡した。

 世間が驚いたのは、20歳の若者に名門バルセロナが支払った金額の大きさだけでなく、世界のトップリーグでロナウドが見せた破壊力。96−97シーズンは34ゴール(37試合)を挙げて得点王となり、欧州カップ・ウィナーズカップでは決勝ゴールを決め、バルセロナにタイトルを加えた。
 96年の暮れには、FIFA年間最優秀選手に選ばれたのも、この年の半年間で13ゴール(15試合)というハイペースに、サッカーの専門家たちが目を見張ったからだろう。

 その前年にイングランドのプレミアシップがペイテレビとの契約で、一気に収入を増やしたのをきっかけに、欧州のトップクラブのスターの報酬が大幅にアップし、サッカーはビジネス面でも注目されるようになった。若いロナウドはその先端を走り、彼については常に「高い買い物か」「値段に見合う働きは?」といった言い方が付いて回ることになる。
 そんな空気もあるなかで、彼はリーガエスパニョーラで着々と得点を重ねていった。ゴールを奪うだけでなく、そのシュートの過程の鮮やかさ、まず第一にドリブル(対コンポステラ戦の60mをはじめ)、そして、信じがたいスピードと正確なシュート、その一つひとつの動作がファンに強い印象を与え、専門家たちの賛辞を引き出していた。

「長身でがっしりとし、チャンピオン・ボクサーのような立派な体格と、フレッド・アステアのような足をもった若者」と書いたのは、マヌエル・バスケス・モンテルバンというベテラン記者。ロナウドのステップの軽やかさを、ハリウッドスターのダンス映画でおなじみの「アステア」に比べた。軽やかなステップを踏みつつ、相手ディフェンダーのショルダーチャージを体で受け止めるその強さが、チャンピオン・ボクサーに見えたのだろう。
 当時デポルティボ・ラコルーニャの監督、ジョン・トシャックは、「必要な時に点を取るが、点差がついて結果が見えている時は、無理をしない。バレンシア戦で、2点を奪った後に同点にされると、彼は自らハーフウェーラインまでボールを持ってきて、再び、ゴールして勝った。スペインリーグの中で、彼は違う惑星から来たように見える」。自らもストライカーだった監督の弁――。
 違う惑星から――という言い方はホルヘ・バルダーノも。当時バレンシアの監督だった彼は、「ロナウドは得点用コンピュータ搭載のエンジンを積んだフェラーリのようだ。力があり、計算能力があり、パワフルであり、彼自身のやり方で試合に勝つ能力を持っている。世界では彼をブラジル人と言うが、彼は火星人に違いない」。アルゼンチンの代表選手であり、マラドーナとともに86年ワールドカップに優勝し、名ストライカーとして知られたバルダーノは、ロナウドのスピードと、“読む”力に注目した。

 誰からも高い評価を受けたバルセロナでの1年の後、ロナウドは97−98シーズンには何と、イタリアのインテルに移った。例によって、華やかなお金の話と、セリエAというディフェンシブなリーグの中での彼の働きへの期待と不安の声が交錯するなかで、イタリアでも彼は見事な適応力を見せゴールを重ねる。コパ・アメリカの優勝もあって97年暮れにはFIFA年間最優秀選手に再び選ばれた。
 97−98シーズン、インテルでのゴール数は25(32試合)。ドイツのオリバー・ビアホフ(ウディネーゼ=イタリア)に次いで得点ランキング2位。スペインよりも各チームの力が接近し、特に守備的な意識の高いなかでのこのゴール数は、あらためて彼の能力を示すものだった。
 98年ワールドカップは、ロナウドの大会になるだろう――多くのメディアがそう書きたてたのも不思議ではなかった。


(週刊サッカーマガジン 2007年12月25日号)

↑ このページの先頭に戻る