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ロナウド(6)爆発的なダッシュと右ヒザの故障。因果は繰り返し、ついに長期離脱

 鹿島が元旦の天皇杯決勝に勝ってリーグと合わせて2冠となり、1月14日の高校選手権決勝で流経大柏(千葉県代表)が藤枝東(静岡県代表)を4−0で破って、これも全日本ユースに続いて2冠を手にした。
 鹿島のシーズン後半からの試合ぶりについては、すでに多く語られているが、小笠原満男が海外に移り、セリエAでの出場機会に恵まれずに再び鹿島に戻ってきたのが(彼がいない間の仲間の工夫も含めて)チームにも彼自身にも大きなプラスになったようだ。

 先週号の本誌にジェレミー・ウォーカーの「オズワルド・オリヴェイラこそ立役者」という、見事な書き物が掲載されていた。
 まことにそのとおりだろうが、選手個々の力や、この監督の就任も含めて、ジーコ(元日本代表監督)が手塩にかけてつくりあげた鹿島の底力をあらためて思うことになった。
 流経大柏の優勝には感嘆の他はない。168cmのストライカー大前元紀の得点力については別の機会に譲るとして、彼が“小柄”という“個性”を大人のクラスでどのように伸ばしていくか楽しみだ。

 さて、「ストライカーの記憶」の連載はロナウド(ミラン=イタリア、元ブラジル代表)の6回目。98年ワールドカップ決勝での異常事態のあと、インテル(イタリア)での2シーズン目に移る。
 順風満帆に見えたロナウドのサッカーキャリアが、21歳で頂点に立つはずのワールドカップの決勝の舞台で、奈落の底へ突き落されてしまった。
 そのワールドカップからしばらくした98年の秋、「インテルのロナウドが試合を休んでいる」との話が伝わる。
 9月20日の対ピアチェンツァ戦でPKを決めたが、そのあと3試合は出なかった――。そしてまた復帰後――11月8日のミラノダービーで得点をしたが、途中で交代した――と。さらに99年に入って1月17日のボローニャ戦でヒザを痛めて2ヶ月休む――など。結局、このシーズンは、休み休みしながら19試合に出場して14得点を記録している。
 かつて、彼がFIFA最終優秀選手賞を2年連続して受賞したときに、多くの人が称賛するなかで、私はヨハン・クライフ(元・オランダ代表)が「若い彼がペレのようになるまでには、何年もかかる」として、その能力を認めながらも彼への過度の期待が重圧になることを心配する発言を読んだことがあった。
 何しろ彼は、前述の1月のひざ痛のあと3月13日のミラノダービーに出場しているのだから――。

 ロナウドのセリエAでのケガとの戦いは、99年の秋になってさらに難しいものになり、11月30日にとうとうパリの病院で腱断裂したヒザの手術を受けることになった。
 99−00シーズンは7試合(3得点)に出場しただけだった。ブラジル通によると、彼は右ヒザに“爆弾”を抱えているようなので、96年2月にオランダのPSVでプレーしていたとき、現地アイントホーフェンで手術したのと同じところだという。
 さらに、それは95年秋のブラジル対ウルグアイ(2−0)の親善試合で痛めたもの。2得点した彼は、ハーフタイムに足を引きずって引き上げたが、後半にもプレーをしたそうだ。
 ウルグアイが相手と聞けば、ウルグアイ側に厳しいタックルがあったのかと想像したくなるが、どうやらそうではなく、彼自身の急激な動き、その動きの速さのためにヒザの腱を痛めたのではないか――というのがドクターの見解だったという。

 80年代のマルコ・ファンバステン(元・オランダ代表)は右足首の故障に苦労したが、ロナウドもまた右ヒザに問題があったのか――。
 私のように遠い昔にアマチュア・サッカー選手だった者には、ヒザに大きな故障を抱えれば、プレーヤーとしてはまず絶望的であるとの考えがあったから、「とうとうロナウドも――」と思ってしまう。
 そのロナウドが再び00年4月にニュースとなる。12日のコッパイタリア決勝で交代出場し、6分後にまた再びヒザの腱を損傷したというのである。
 ローマのオリンピコ・スタジアムでのラツィオ対インテル第1戦、ロナウドは自分でフェイントをかけたあと、グラウンドに倒れてしまう。誰も彼と接触していた者はいなかった。5ヶ月の離脱のあと、万全ということでようやく登場したのに――。
“また、同じ右ヒザだ”――直ちにロナウドはパリへ運ばれた。
 ドクターは「膝蓋骨を完全に破壊している」と言い、「我々は、丈夫にするため別の組織を結合した。ロナウドがプレーに復帰するのは01年の初め頃になる。奇跡は期待できない」と言った――と伝えられた。


(週刊サッカーマガジン 2008年1月29日号)

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