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ロナウド(7)2002年日韓W杯。甦って、ゴールを重ね、勝ち上がる

 アジアで初の大会――2002年FIFAワールドカップ KOBE JAPAN――その開幕の半年前の予想で、ブラジルを優勝候補の筆頭に推す人は少なかった。
 南米予選で9勝3分け6敗。アルゼンチン(13勝4分け1敗)エクアドル(9勝4分け5敗)に次いで3位という成績だった。監督もたびたび交代し、選手も試合ごとに入れ替わった。
 大会の組合せが決まったとき、ペレは「1次リーグC組ではトルコは手強いが、あとは中国とコスタリカだから、まずここから第2ステージへ進むことができるだろう」と喜んだという話がある。

 大会が近付くと、徐々にブラジル株が上がり始めた。
 ロナウド復活のニュースとともにである。セリエAのインテル対ブレシア戦で2ゴールを決めた。ブラジル代表の試合にも出場するようになった。45分プレーした。70分プレーした――と。
 監督もルイス・フェリペに落ち着いて、世界中のブラジル好きは期待を高めた。ヨーロッパの専門誌の中で、“今月のベストイレブン”にロナウドをFWに選ぶところが現れた。

 ロナウドの復活とブラジルの動向を気にしながらも、私たちはまず5月31日、ソウルでの開幕戦でフランスがセネガルに0−1で敗れるのを目の当たりにする。
 98年に世界を制し、00年に欧州選手権に勝った2冠チームは、そのほとんどのメンバーをそろえながら、ジネディーヌ・ジダンを欠いていた。5月18日のチャンピオンズリーグを勝ち取り、欧州の激戦を目いっぱい戦ったジダンの故障回復はままならず、フランスは早々と大会を去ることになる。

 開幕戦から4日後、ブラジルはCグループ第1戦でトルコを破った。44分に先制されたが、後半にまずロナウドが同点にし、リバウドがPKを決めてグループ内での最強の相手から勝点3を奪った。この試合はナマで見ていないが、ロナウドの得点はリバウドからのクロスを、相手DF2人の間に割り込んでボレーを決めた――と知った。

 6月8日、済州島でのブラジル対中国を取材した。スコアは4−0。ロベルト・カルロスが15分に23mのFKを例の弾丸シュートで決めて、それまで元気だった中国チームに違いを見せつけた。2点目はリバウドで、ロナウドが相手と競り合ったルーズボールをロナウジーニョが拾ってパスを出したのだった――。
 3点目はロナウドのファウルで得たPKをロナウジーニョが――。これはロナウドが2人をかわしてシュートへ持っていこうとしたとき、腕を引っ張られて倒されたものだった。
 4点目はカフーが深く侵入してクロスを送り、ロナウドが正面で――。
 技術の差は大きいけれど、体に力のある中国選手にからまれても振り切っていこうとするところ、また、ダッシュで突破するところは、かつてのロナウドの力が甦っているようだった。何よりも、リバウド、ロナウジーニョとの協調ぶりが良かった。

 6月13日の第3戦はコスタリカに5−2。ロナウドは10分と13分にゴールして、1次リーグ3試合で4得点をかせいだ。3人のR(頭文字)の攻撃力でブラジルは大会の主役の座につこうとしていた。

 6月17日、ノックアウトシステムに入っての第1戦の相手はベルギー。日本との対戦を見ても、個々の力も、組織もしっかりしたチームだったが、ブラジルは3Rの2得点で快勝した。
 1点目はロナウジーニョのパスを受けたリバウドの会心のゴール。ゴールを背にして空中のボールを止め、反転ボレーシュートを叩き込んだ。2点目はロナウド。クレベルソンからのクロスを走り込んで決めた。閃光のような速さに誰もが目を見張った。

 準々決勝の相手はイングランド。人気絶頂のデビッド・ベッカムが中心だった。6月21日、静岡でのこの試合でリードしたのは、イングランドだった。リバウドのシュートをDFが体で止め、そこから攻めに転じて、エミール・ヘスキーが前方に送ったボールがブラジルのルッシオの足に当たり、これを拾ったマイケル・オーウェンがドリブル。シュートをしっかりとゴールへ送り込んだ。
 ブラジルは前半の終わり近くに同点とする。ロナウジーニョの見事なドリブルと、それに続くリバウドへのパスからだった。突っ立ったままでボールを受けても力強いシュートのできるリバウド、一瞬のうちにマーク相手を置き去りにするロナウドという優れた2人を選択できるロナウジーニョのドリブルは脅威だった。
 50分にロナウジーニョが、のちに語り草になる30m近いFKを決める。ベッカムが試合中に足を痛め、力を削がれたイングランドは、ロナウジーニョ退場で10人になったブラジルに追いつけなかった。
 ロナウドたちにとって、優勝へはあと2試合となった。


(週刊サッカーマガジン 2008年2月5日号)

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