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オリンピックのコロシアムで 7月14日

「LOS ANGELES MEMORIAL COLISEUM(ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム)」と正面に書かれていた。
 ロサンゼルスのダウンタウンのフィゲロア通り、コンベンションホールからしばらく車で走った右側の公園の奥に、見覚えのある塔とゲートがあった。修理工事中で、金網を張りめぐらし、ブルドーザーが動き、作業関係者がヘルメット姿で働いていた。スタジアムの中に入れそうにないのには失望したが、それでも、擂鉢状の観客席の一部が外から見えた。

 1994年7月14日、私はロサンゼルスのオリンピック会場の前に立っていた。
 そう、ここはスポーツの歴史のなかでも、特に記憶に残る2つのオリンピックを開催したモニュメントなのだ。
「走れ、大地を、力の限り
  泳げ、せいせい、しぶきを上げて」
 いつの間にか私の頭の中に、少年時代にラジオで聞いたオリンピックの歌の一節がよみがえっていた。
 ロサンゼルス五輪といえば多くの人には10年前の、あの絢爛たる開会式と、真夏のマラソンの悲壮なゴール、商業主義を持ち込んで成功した1984年大会――ということになるだろうが、私たち戦中派には、62年前の1932年(昭和7年)大会がまず浮かぶ。それは、この主会場の、この塔のメーンポールに日の丸を揚げた、三段跳びの南部忠平選手と、馬術の大障害飛越で優勝した西竹一(陸軍)中尉の印象が、当時小学2年生にも強烈だったからだ。

 時間がないので、ともかく外側を回ってみよう。タクシー・ドライバー氏に頼んで一周してみる。
 クーベルタン男爵の提唱によって古代ギリシャでのオリンピックを復活し、世界の若者を集めてスポーツを競う、近代オリンピックは、20世紀の人類のひとつの大きな財産となった。日本が初参加した1912年(昭和45年)の第5回ストックホルム大会の頃からようやくスポーツ大会としての運営が軌道に乗り、第1次大戦による中断を経て、1920年のアントワープで、1924年パリ、1928年アムステルダムと、回を重ねて充実していったが、32年大会はまず、そのスタジアムの巨大さ、選手村その他設備の豪華さが、それまでとはケタ違いで、世界に、あらためてアメリカの豊かさと、新興ロサンゼルスの実力を示し、1892年の石油発見までは一寒村だったこの地域を世界に知らせたものだ。

 南部忠平は、走り幅跳びに7m98cmの当時の世界記録を持っていた。100mを10秒6で走るスピードと、天性のバネを鍛えた跳躍力はすでに世界の注目を集めていた。それが本命の走り幅跳びに失敗し、どちらかといえば余技に近かった三段跳びに出場して15m72cmの最高記録で優勝したのだった。
 その頃、ぼつぼつ日本からの移住者に対する反対運動も始まろうとしていたときだったが、アメリカの観衆は素直に日本からやってきた跳躍のスターの優勝を喜んだ。当時カリフォルニアに移住した日本人にとって、この優勝はどれほど誇らしいものだったか。馬術という外国でもハイソサエティのスポーツに日本の陸軍士官が優勝して欧米人を驚かせたバロン(男爵)西と、南部の名は大会後も長く私たちの記憶に残った。

 車が水泳プールの側を走り、大きく迂回すると、なんと、競技場の外の広場で、子どもたちがサッカーをやっている。それも、ほぼ2組、人数などは正確でないが、ゴールを置いて試合をしていたのだった。
 南部さんたちの活躍に沸いた32年ロサンゼルス大会は、日本のサッカー人にとっては口惜しい思い出がある。ブロークンタイム・ペイメント(休業補償)つまり、サッカーの試合のため、勤めを離れて給料を差し引かれる分を、休業補償として、サッカーから支払うという件に関して、金をもらえばアマチュアでなくなる。したがってオリンピックに参加できない、といった反対意見もあって、解決をみないまま、FIFAはロサンゼルス五輪への参加をストップした。アメリカ側もその決定を受け入れた。欧州諸国であればサッカーはオリンピックのドル箱だから、開催しないなどということはないのに――。

 FIFAではすでにプロもアマも参加して新の世界一を決定するW杯を1930年(昭和5年)にスタートさせていたが、日本のサッカー人には、その頃はオリンピックが目標。昭和5年の極東大会(東京)で初めて優勝し、ロサンゼルスを目指していた。東大を主力として、初めて日本全土から選抜、強化されたこのチームは、極東で霸を唱えながら終わり、思いは4年後のベルリン組が果たすことになる。
 私はかつて、このときのCFであった手島志郎さんがポツリと「ロサンゼルスへは結局ゆけなかったからね」と言ったのを覚えている。サッカーが盛んでないが故に、オリンピックでサッカーを行なわなかったロサンゼルスが、84年のオリンピックでは、サッカー決勝に大会最大の観衆を集めた。
そして、62年後のいまワールドカップを誘致し、立派な大会運営の中心となった。そのパサデナ会場から遠く離れたコロシアムはいま静かに夏の夕暮れに立っている。私は子どもたちの歓声を聞きながら、60余年後のいま、自分がここにいる不思議な縁を思うのだった。
 W杯の3位決定戦は2日後、決勝の17日は3日後に迫っていた。


(J-ELEVEN 1994年9月号「FLYING SEVENTY W杯USA’94 アメリカの旅」)

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