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タクシー・ドライバー 〜 移住者とサッカー 〜 7月12日

 リカルドと運転手とが、スペイン語で話しだした。どうやらマラドーナのことらしい。
 7月12日、サンフランシスコのスタンフォード大学のスタジアムからの帰り、このスタジアムは市の27マイル(43.2km)南方にある。つまり大阪から京都へゆく距離で、メディアのためのシャトルバスは競技場から市までの半分の距離のメディア・ホテルまで運ぶだけ。そこからはタクシーを利用するのだが、たまたまそのハイアット・リージェンシーでタクシーを待つ間に有名なアルゼンチンのカメラマン、リカルド氏と会い、一緒に市内のホテルに向かっているときのこと。
 はじめ英語で、今日は試合を見に行ったのかなどと聞き、ひとわたり話したあとで、どこから来たのと聞いたらペルーからだという。それじゃオフリ・クビジャスのところだねというあたりから、2人の会話がスペイン語になったというわけだ。

 2人の話がはずみだした(こちらには、ほとんど分からないから)ので、私は別のことを考える。このドライバーがペルー人。私を乗せてくれたタクシーの運転手で、移住者はこれで何人になるのかな、と。
 今度の旅行では、機内ではテーブルを引き出して何か書いていたから、あまり隣の席とは話したことはない。
 シカゴからデトロイトへの間にドイツ人で7年間こちらにいるという実業家と、デトロイトからボストンの間に野球好きのアメリカ人(サッカーにも関心)とスポーツ談議をした程度だった。その代わり、というわけでもないが、タクシードライバーとはよく話をした。
 ひとつには、用心して、その人柄を見ておきたい(正規のタクシーは安全で、余計な心配はしなくてよかったのだが)のと、もうひとつにはワーカーの代表でもあるドライバーのサッカー観を聞きたかったためである。

 面白かったのは、ドライバーの半分以上が最近10年くらいまでの移住者であったこと。デトロイトのポンティアック・シルバー・ドームから、夜遅く乗った車を運転していたのはエチオピアの若者で、薬剤師になるため学校へ通いながら働いているとのこと。ダラスで空港まで送ってくれたのはスーダン(アフリカ)から、サンフランシスコで長大なリムジンに私を乗せたのはアフガニスタンから、シカゴではドイツ系の英語のきれいな――、ボストンではポーランドからの――。
 ダラスの空港からホテルまでの間、ドライバーがかけていたラジオはフランス語だった。
 アメリカのなかでの新しい移住者の多さに驚くとともに、これらの人たちが、W杯をはずんだ口調で語るのに、なるほどなぁと思ったものだ。

 今度のW杯のひとつの問題は、サッカーがメジャー競技でない国での初の大会であることだった。ベースボール、バスケットボール、アメリカン・フットボール、アイスホッケーと、各種のプロスポーツの本場であるアメリカではW杯の最中でも、テレビはバスケットのNBAのプレーオフ、ベスボールのリーグ戦を放映している。そうしたなかで果たして、どれだけの関心を集め、アメリカ大衆にサッカーを浸透させるかはFIFAにもアメリカ・サッカー協会にとっても大きな賭けだった。
 この賭けは成功した、少なくとも、いまの時点では大成功といえる。
 開幕の頃は、各会場での熱狂ぶりと、会場外での一般アメリカ市民の無関心との対象ぶりを伝えるのがアメリカのメディアのテーマのようでもあったが、自分たちの代表チームがコロンビアに勝ち、第2ラウンドに進出する頃から社会全体の関心としてとらえるようになっていた。

 そのアメリカ代表がブラジルに敗れたあとも、サッカーそのものの面白さを伝え、勝ち残ったベスト8のそれぞれの国での反応を伝え、世界を挙げてのお祭り騒ぎの中心に自分たちがいることを説いているようだった。
 その変化は、また、アメリカ市民が自分たちの身近に、いかにサッカー好きが多かったか――、これまでは自分たちの好みをいうチャンスのなかった人たちが、W杯でサッカーを目にし、ブラジルを誉め、ストイチコフのシュートを語る。その数の多さに、あらためて気づいたこととも無縁でないだろう。

 試合前の国歌吹奏のとき、メキシコやボリビアの合唱の大きさは、とても旅行者サポーターだけでは生まれない音量だった。
 指導者の努力で、200万人まで増えた少年、少女のサッカー人口と、サッカー国からの移住者たちが、大会を盛り上げる大きな要素になっていた。
 人口統計によると、ロサンゼルス一帯は、ヒスパニック(スペイン語圏の人)が総人口の70%を占めるという。ロサンゼルスが、今度の大会の決勝会場となったのも、こうしたサッカー熱を支える移住者パワーがあったとも考えられる。
 ベルー人とアルゼンチン人の会話を聞き、あらためて、アメリカの人種構成の複雑さ、それゆえの困難さと若さを思い、サッカーがその新しい勢いをまとめるのに役立って欲しいと願うのだった。


(J-ELEVEN 1994年9月号「FLYING SEVENTY W杯USA’94 アメリカの旅」)

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