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ブエノスアイレスとウルグアイ

 ウルグアイ(URUGUAY)とその首都モンテビデオは、私には少年のころから思いをはせる“遥かな国”だった。南米航路の起点であった神戸という街では、そのころすでに、ブエノスアイレスやモンテビデオという名は親しみをもたれていた。そして、ブエノスアイレスやモンテビデオの背後に広がる、アルゼンチンやウルグアイの大平原は、狭い日本、ことに神戸のように山と海に囲まれた坂の街に住む私の夢をかきたてるのだった。

 1980年の年末から81年の1月10日までそのウルグアイのモンテビデオで、ワールドカップの50周年を記念して、W杯優勝国6か国を集めた「コパ・デ・オロ」(黄金カップ)が開かれたとき、地球の裏側まで出かけたのは、一つには、世界一流国のナショナル・チームを、一度に見られることがあったからだが、やはりウルグアイ、あるいはモンテビデオへの、長い思い入れがあったからに違いない。78年のアルゼンチンW杯のとき、大会期間中にブエノスアイレスからモンテビデオへ行く用意をしながら、天候などの条件のため行けなかったのも、伏線になっていた。

 このウルグアイへの短期の旅行とモンテビデオでのサッカー観戦で、私は、この地の人たちのアルゼンチンに対する強い対抗意識を知った。住民はスペイン系、イタリア系が90l、宗教はカトリック、言葉はスペイン語と、基本的にはアルゼンチンと変わることがないのに、そしてまた、経済面でもアルゼンチンに依存するところが多いのに(いや、それ故にか)...。

 面白いのは、その対抗意識がアルゼンチンというよりはブエノスアイレスに向けられているところだ。これはウルグアイの独立が、ブエノスアイレスを盟主とするラプラタ共和国からであったことに遡るからかもしれないが、ラプラタ河をへだてて存在する巨大都市、人口1千万人に近いブエノスアイレスは、なにかにつけて、300万人のウルグアイ、150万人のモンテビデオの人たちには大きな影響を持ち、そのために、反発心が起こるのだろうと思われた。

 ついでながら、隣国というものは、それぞれが影響しあう、そしてまた反発しあうものだが、一方が大きくなりすぎると、その影響力がより大きくなり、相手方の反発もまた強くなりやすい。「大日本帝国」が第2次大戦で敗北するまでのある時期、日本が朝鮮半島で示した横暴はともかく、今、平和国家を自認していても、経済力が大きくなれば、それだけ近隣諸国への影響力も大きく、したがって、反発が起こりやすいことを知っておくべきだろう。

 サッカーのような国際スポーツに身を置けば、政治や経済には、そう詳しくなくても、こうした人々の心を知るようになるものだ。私は1981年の1月13日、ブエノスアイレスからニューヨークまでの飛行に隣席したアルゼンチン女性の大学教授に、私の、ウルグアイ人の対アルゼンチン感情を話すと、不思議そうに「そんなこと、あるはずがない」と言ったのが、今でも忘れられない。

 隣の大国に対する強い対抗意識のことにふれたのは、ウルグアイのサッカーは、このラプラタ河をはさんでの競争を抜きには語れないからだ。

(サッカーダイジェスト1990年4月号より)

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