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飛行機の隣人、東欧の進出 7月10日

「昨日の試合を見ましたか」
 隣の席にいた若者が声をかけてきた。
 7月10日、私の乗ったAA203便はダラスを予定より遅れて8時30分に離陸し、サンフランシスコに向かっていた。
“ああ、見ました。ブラジルはやはり強いヨ”と答えると「今日のサンフランシスコはどちらが強いと思いますか」とくる。
“ルーマニアは東欧のブラジルといわれるほど、フットワーク、ボールテクニックがいい。しかし、スウェーデンはチームとしてまとまっている。接戦だが、スウェーデンだろう” 「私はルーマニアに勝って欲しいんですよ」


 私が名刺を出すと、彼はメキシコ人でグアダラハラに住む、ウーゴ・アルバレス・ブルムと名乗り名刺をくれた。ブルム君は杖をついていたので、そのことについて尋ねると、「サッカーでケガをした。ヒザを痛めた」と説明し、グアダラハラのアトラスというクラブのプロ選手であること、プレーしながら会社も作って木材の販売の仕事をし、グアダラハラに大阪市が作って寄贈した日本庭園に材木を納めたとも語った。そして、ルーマニアを支持するのは、そのスタイルが好きなだけでなく、自分の父親がルーマニア人だから、とも言った。第2次大戦前にルーマニアからアメリカ大陸に渡り、メキシコに落ち着いたのだという。

 ルーマニアといえば、ハジに代表されるように、見事なボール扱い、ステップなどで、この大会での注目のひとつだった。
 7月3日、彼らがアルゼンチンを3−2で破ったとき、「この勝利は、89年12月の革命以来のルーマニア国民にとってのうれしい事件」になるだろうとイオルダネスク監督は言った。ブカレストでは、そのとおりの喜びだったらしいが、チャウチェスク政権を倒した後の歴史的な日に、テレビで私が見たのは広場に集まった市民が「オー・レオ・レオ・レオ・レー」を歌う姿だった。スペインで闘牛士を励まし、彼が牛の突進をかわすときに観衆が一斉に唱える「オーレッ」が、サッカーのスタジアムにも移り、イタリアやスペインでは、それまでゆったりしたリズムで「オ・レーオ・レー・オ・レー・オ・レー」という調子だったが、ルーマニアの革命のとき歌ったのは、まったく違ったリズムだった。
 どうやら、それまでベルギーあたりでこれを使っていたというが、おそらく、ヨーロッパ中に「オー・レオ・レオ・レオ・レー」がこのとき伝わり、それが90年イタリア大会で、共通のリズムになったのではないかと私は秘かに思っている。

 今度の大会では、アフリカ、アジア、そして米国などの第3勢力の活躍も話題だったが、ルーマニア、ブルガリアの東欧、さらには北欧スウェーデンなど、いわばサッカーでは“小国”の上位進出があった。
 ブルガリアの首相が、「民主化の勝利でもある」と言ったと伝えられているが、あながち政治家特有の誇張とは言えないと思う。
 私の計算ではベスト8に進出したチームの総計176人(1チーム22人)の選手のうち、外国のリーグでプレーしているのが約3分の1の58人、なかでブルガリアは13人、ルーマニアは8人とチームの主力を占めている。従来からも、東欧から西欧のプロへの選手の移動はあって、ユーゴなどは選手輸出国として有名だったが、社会主義時代には国の規制で28歳以前の海外移籍は認められていなかった。
 それが自由化によって、現在では24〜25歳の働き盛りの選手がドイツやフランス、イタリア、スペインなどのリーグでプレーを始めている。欧州の高いレベルのリーグでのプレーは、選手の技術や経験を高めるが、それが28歳以降でなく、若いうちに可能になったということは、今度の彼らの実力アップ、上位進出の伏線になったといえるのではないか。
 東欧の民主化は、ヨーロッパのサッカーに、これまでと違った形で、新しい力を生み出している――。サンフランシスコに近付く機内で、私は、うとうと眠っているブルム君の顔を見ながら、サッカーという世界の複雑な絡まりの不思議さを思っていた。


(J-ELEVEN 1994年9月号「FLYING SEVENTY W杯USA’94 アメリカの旅」)

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