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マラドーナ 7月1日

「マラドーナ、公式に大会から追放」
(It's official : Maradona banned from tournament)〜ボストン・グローブ紙〜

「二度目のテストの後、マラドーナはワールドカップから除外」
(After Second Test, Maradona Is Out Of World Cup)〜ニューヨーク・タイムズ紙〜

 新聞の見出しを見ながら、あらためて、マラドーナの選手生活はこれで終わりだなと思う。――1994年7月1日朝。ボストンのバックベイ・ヒルトン・ホテルのティールーム。紅茶1杯1ドル、クロワッサン1個1ドルのワールドカップ・サービスという簡易食を食べながらである。大会は1次リーグを終わり、7月2日から第2ラウンドに入ることになっていた。

 その1次リーグを追う私の「フライング・セブンティ」の旅は、6月21日からボストンに滞在、ダルトン・ストリート40のこのホテルをベースにして
▽21日 D組 アルゼンチン4−0ギリシャ ▽23日 C組 韓国0−0ボリビア= ※前号参照 ▽24日にはデトロイトでB組 スウェーデン3−1ロシア ▽翌25日はボストンに戻ってD組 アルゼンチン2−1ナイジェリア ▽27日はシカゴに移ってC組 スペイン3−1ボリビア ▽28日はデトロイトへ飛んでB組 スウェーデン1−1ブラジル ▽29日はボストンに引き返し ▽30日にはD組 ナイジェリア2−0ギリシャを取材した。

 この30日には同じD組のアルゼンチン対ブルガリアが午後6時30分からダラスで行なわれたのだが、キックオフ6時間半後にFIFAからマラドーナのドーピングテストの結果と、大会から追放することの発表があったのだった。
 ドーピングテストは25日の対ナイジェリア戦の直後に行なわれ、無作為抽出で、アルゼンチンのチームからはバスケスとマラドーナの2人が尿を提出し、マラドーナのものから使用を禁止されている薬物が検出され、二度目の検査でも同じ結果が出たのだった。

 FIFAの担当ドクターの話では、検出されたのはエフェドリンなどの5種類で、いずれも刺激、興奮剤系。これら5種類を全部含んでいる薬はないから、マラドーナは複数の薬を「カクテルのように」服用したとみられる。これらは、中枢神経を刺激して精神の集中力を高め、体の動きにも効果があらわれると説明した。

 すでに、前日の29日に最初のテストでマラドーナに薬物使用の疑いあり――との連絡を受けたアルゼンチンFAの会長であり、FIFAの副会長でもあるグロンドーナ氏は、マラドーナを代表チームから外すことを発表した。再検査の結果が出ないうちにチーム側から発表したのは、問題がより大きくなる(チームの2試合の成績の取り消しまでに)ことを恐れたのかもしれないが、30日に彼なしで試合することも、前日に明らかにしていた。
 これに対してマラドーナは、「鼻がつまったために風邪薬を飲んだが、薬物使用は絶対にしていない」と反論していた。
 ダラスでのFIFAの発表は、2回目の検査を踏まえての公式決定だった。


19歳の才能を見た日の喜び

 もうマラドーナのプレーを見ることはないのか――紅茶を飲みながら思う。
 ディエゴ・アルマンド・マラドーナというプレーヤーを初めて見たのは1979年5月、FIFA創立75周年の記念行事の一環として行なわれた試合のテレビ放映だった。
 78年ワールドカップの優勝チーム・アルゼンチンと準優勝のオランダが対戦した。GKフィジョル、オルギン、パサレラ、タランティニ、アルディレス、ガジェゴ、ペルトーニ、ルーケ、オルディレス(ケンペスは欠場)らのW杯メンバーのなかに混じった18歳のマラドーナのスピードとテクニックに、世界は新しいスターの登場を見た。そして9月、日本で行なわれた第2回ワールドユース大会(日本サッカー伝説=参照)で彼は主将としてやってきた。

「サッカーの隆盛と経済の発展のおかげで、私たちは近ごろ世界のスター選手のプレーを目のあたりにすることができる。しかし、それらの多くは盛期にあるか、最盛期を過ぎようとするベテランである。今度の大会で私たちは、疑いもなく、伸び盛りの若い、将来のスターを見つめることができる」とは、大会の公式プログラムへの、私の寄稿だった。

 マラドーナは、その期待を裏切らない――いや期待以上だった。かつて、これほど精緻なボールテクニックをする若者がいただろうか。そして単に個人の技術だけでなく、試合全体を見通せる目を持つ19歳がいたのか――大宮会場でのポーランド戦で、彼がボールを浮かせ自分は飛び上って相手のタックルをかわし、そのジャンプから落下しつつ左足でボールにタッチして、ボールを自分の前に落とし、体が地面に着くと同時に、右へクロスパスを送った一連の動作は、15年後の今でも頭に焼きついている。
 決勝で、ソ連にリードされて、遮二無二ドリブルで突っ込んでは潰された。誰が見ても、オープンにボールを回せばもっと楽に攻められるのにと思うプレーだが、その一途にドリブルで突っ込んで行く若さが好ましく、また羨ましかった。彼の気迫で結局ソ連の守りに穴があいて同点ゴールが生まれ、逆転勝ちにつながったのだった。
 この大会で、スタンドが一丸となって日本代表を応援したが、決勝ではアルゼンチン国旗が林立し、ソ連側には不公平にも見えたほどだ。それだけ、マラドーナが同世代の観衆を惹きつけた証(あかし)でもあった。


86年W杯、魔王ディエゴ

 80年春から81年正月にかけてウルグアイでコパ・デ・オーロ大会があったときに出かけたのも、W杯優勝国のそろい踏みとともに、マラドーナと78年優勝組のアルゼンチンを見たいためだった。その同じ顔ぶれでの82年W杯は、チームのコンディションが悪く、彼自身にも、私たちにも不満だった。バルセロナへの高額移籍は、スペインリーグでの故障もあって、期待通りにはゆかず、彼はイタリアのナポリに移ってようやく本領を発揮する。そして、カルロス・ビラルド監督とともに乗り込んだ86年メキシコ大会は、まさにマラドーナの大会となってしまう。

 蹴られても、トリッピングされても、倒されても文句を言わず辛抱した強さはどこから来たのか、テクニックはなお正確度を高め、強く、早くなっていた。対イングランド戦の問題となった“神の手”ジャンプ、そのハンドによるゴールを消し去る5人抜きドリブル。決勝での対西ドイツはマテウスのマークに対して自らの大きな動きは見せないものの、仲間を生かす見事なパスでチムを優勝に導いた。
 かつて、遮二無二ソ連の密集防御へドリブルで切り込んで行った若いキャプテンは、仲間を見事に生かすプレーメイカーであると同時に、その周囲の動きを利用して、絶対的に行けるというタイミングをつかんでの突破を図るマジシャンとなっていた。


被反則、1試合10回

 この大会で世界の第一人者となった彼を中心に南米選抜をして世界の子どものためのチャリティマッチを私が企画し、87年2月24日に東京で日本選抜との試合を行なったが、彼はケガをおして出場してくれた。
 チームの中軸の彼へのチャージは激しく、マラドーナにケガはつきものとなり、90年W杯では1試合平均10回のファウル(笛が鳴った)を受ける。4年前25歳の超人的な力の失せたこの大会での彼は、ただ痛々しく見えるだけだった。それでも、彼はゲーム中の“今”のタイミングをつかむ魔術は残っていた。ブラジル戦の83分のドリブル、それまでトリッピングですぐ倒れたのがウソのように3人も抜いてパスを出し、ゴールにつながった。対イタリア戦、何気ない風に出した横パスを受けたオラルティコイチェアが絶妙のクロスを送ってカニーヒアのヘディングを生んだ。
 優勝と準優勝という栄誉を重ねながら、彼はフラストレーションをつのらせ、ナポリの首脳と悶着を起こし、あげく薬物使用、コカインにまで手を出す。90年以後の4年間は誰も眉をひそめながら彼を立ち直らせることはできず、86年大会、90年大会と二つの大会で彼をヒーローにしたカルロス・ビラルド監督とも離れてしまった。

 峠を過ぎた34歳の彼にとって、今度のW杯がそれほど意味があったのだろうか。
 私は、アルゼンチンの第1戦、対ギリシャ、第2戦の対ナイジェリアを見た。
 確かに、彼はフィールドに立ちプレーをした。しかし、それはボールタッチの芸術を見せただけ。その芸術は、相手を欺き、味方に益し、人を惹きつけはしたが、野外に展開するサッカーというスケールの大きいスポーツからは遠く離れたものだった。
 人生にはいくつかの定年があり、仕事でも、権力でも、引き際がある。あれほどフィールドの上でタイミングのつかむことに優れていた彼が、自分のプレーに幕を引く時期を読むことはできなかったのだろうか――。
 すでにセブンティ、人生の引き際に近付いている私にも、まだまだ解けないのは人の心なのか。
 ――もう1杯、紅茶を飲むことにした。


(J-ELEVEN 1995年2月号「FLYING SEVENTY W杯USA’94 アメリカの旅」)

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