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新しいメモリアルデー

 そうした2日間の強行日程のあと、4日はバックベイ・ヒルトン・ホテルのルームで、たまっていたメモの整理をし、原稿を書き、そして、東部時間12時キックオフのオランダ対アイルランド(オーランド)15時30分開始のブラジル対アメリカ(サンフランシスコ)をテレビ観戦したのだった。

 前半にブラジルの左サイド、レオナルドが“ヒジ打ち”で退場処分。10人となったが、格の違いを見せつけて、終始攻めまくった。
 ゴール前を固めて、カウンターで一泡吹かせようとするミルティノビッチの作戦も、アメリカ選手たちの闘争心も、ブラジルの技術と意欲には抗し切れず、守りながら、ベベットのシュートによる1ゴールに涙をのんだ。
 10人のブラジルが、得点した後も守ろうとせず攻めたのと、1点を奪われたあともアメリカが勝負を諦めなかったところが、とても感動的だった。

 5日付の朝刊が、こぞって自国プレーヤーの奮闘ぶりを讃え、エモーショナルな見出しを掲げたのもまた、当然といえる。
 ニューヨークタイムス紙は、別のページでこう歌いあげた。
「アメリカでのサッカーの将来がどうであろうと、昨日は、疑いもなく、長く記憶されるべき日のひとつである」
 7月4日、アメリカ人にとって最も記念すべきメモリアルデーのなかでも1994年のこの日は、世界一の大国アメリカが、サッカーという競技でブラジルの力を知らされ、この世界ではまだまだ努力をしなければならぬことを知った日であった。
 同時に、グループリーグを突破したことでアメリカ全土の関心を集めたことが、サッカー普及に力になったと思う。

 サッカーそのものでは、ブラジルのベベットのゴールがロマーリオのドリブルでの突破から生まれたものであること。密集防御を突き破る彼のドリブルのうまさはすでに承知のうえとはいいながら、あらためて「優れたストライカーは優れたドリブラー」であることを確認した。狭いゴール前のスペースに多くのDFを配して守る数的優位の守備に対しては、ボールを回すだけではなく、どこかで無理をすること、相手DFら、こちらから突っかけて守りに破たんを起こさせることがどれだけ効果があるかをロマーリオは示してくれたといえる。
 いつの時代でもサッカーの基本は個人の力であって、個人の力を伸ばさずに戦術をいくら考えても限界がある、という原点を、メモリアルデーのブラジル対アメリカは教えてくれた。日本のサッカーファンがカタールで知った“いま一歩の無念さ”も、アメリカ人が知った“格違いのチーム力”も、結局は同じところから出ているのだった。
 この日のABCテレビはボストン・ポップスの建国記念日の演奏を映し出した。
 チャイコフスキーの1812年序曲。あのナポレオンを撃退した100年祭にチャイコフスキーが作曲した交響曲の、大砲の部分を実際に軍隊の空砲に使うという場面もあり、長い大演奏会のラストは“星条旗よ、栄光あれ”でしめくくられる。
 その放送と、直後に始まった花火のオンパレードを眺めながらあらためて、アメリカは若い国だと思った。
 その若いサッカー国でのW杯は、この7月5日の2試合で第2ラウンド1回戦を終わり、いよいよ準々決勝に入ることになっていた。


(J-ELEVEN 1995年3月号「FLYING SEVENTY W杯USA’94 アメリカの旅」)

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