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イタリアの粘り腰 7月17日

 1994年7月17日、私はロサンゼルスのパサデナ・ロウズ・ボウルにいた。
 W杯アメリカ大会は7月7日、8日の準々決勝、7月13日の準決勝を終え、この前日16日には同じロウズ・ボウルでスウェーデン対ブルガリアの3位決定戦を済ませていた。
 7月4日はボストンにいて、はるか西方、サンフランシスコでのブラジル対アメリカの決勝ラウンド1回戦をテレビ観戦し、アメリカの独立に縁の深いボストンでの独立記念日の催しを楽しんだあと、5日はボストンでナイジェリア対イタリアを取材。7月6日は休養、7日にダラスへ飛んだ。
 ダラスでは10日まで滞在し、9日に準々決勝のオランダ対ブラジルを観戦。
 10日にはダラスからサンフランシスコに移り、この日、パロアルトのスタンフォード・スタジアムでルーマニアとスウェーデンの準々決勝。翌日もサンフランシスコに留まり、次の12日にロサンゼルスへやってきたのだった。

 第2ラウンドに入ると、いつの大会でもW杯はサッカーフェスタ(祭)からチャンピオンシップ(選手権)へと顔つきが変わる。ノックアウトシステムとなれば、どんな大国でも優勝経験者でも負ければおしまい。ひとつのプレー、ひとつのキックが大切となる。
 グループリーグの最終日となった5日のナイジェリア対イタリアは、まことにスリル満点だった。いささか記者席が唖然とするような退場処分が、主審からイタリアのゾラに出されたのが76分。彼にすればシニョーリと交代してからわずか12分後のことだった。ところが10人で、0−1のハンデを負ったイタリアがバッジョのゴールで同点にするのだからサッカーは面白い。
 それまでのイタリアは、中盤のボールをしっかりとりながら、攻めのフィニッシュはただゴール前へクロスを送るだけ、ジャンプ力のあるナイジェリアのDFたちにはね返されていたのだが、あと2分というところでこの日に初めて見せた第2列のエリア内侵入――ムッシが危険ゾーンへ入り込み、DFがタックルに来る前にバッジョにパスし、バッジョが右足シュートで決めたのだった。あまりに時間を計ったような得点に、イタリアはこの攻め手で崩すことを知っていながら、わざと隠していたのか――と思ったほどだ。

 1−0のまま逃げ込めると信じていたナイジェリアはショックだったろう。
 延長に入ってのイタリアのゴールは、前半の12分にベナリーボがエリア内で倒されたPKを決めたもの。左のフルバックで果敢な飛び出しを見せるベナリーボの突進を生かし、バッジョが彼の前へトスをするように高いボールを送り、それを取ろうとした彼をエクアボンが引き倒したのだった。すくい上げるようにしてパスを出したバッジョは果たしてベナリーボがこのボールから点を取れると思っていたのか、こういう難しいボールを送ればPKが転がり込むと閃いたのか?


(J-ELEVEN 1995年4月号「FLYING SEVENTY W杯USA’94 アメリカの旅」)

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