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1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三

なでしこジャパン活躍に思う

 日本サッカーが現在のかたちになるまでに、そのときどきに大きな力となり、後になるまで影響を及ぼした先達(せんだつ)を紹介してゆくこの連載は、ここしばらく日本サッカー協会(JFA)の会長さんたちの登場が続いた。今回は、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックの、あの対スウェーデン逆転劇チームのキャプテン、名DFの竹内悌三さん――。

 今年の夏は北京オリンピックでにぎやかな8月だった。“なでしこジャパン”日本女子代表のベスト4進出は、68年、釜本邦茂たち(男子)日本代表によるメキシコ・オリンピックの銅メダルに匹敵する快挙として賞賛された。
 女子代表は、すでに女子ワールドカップやオリンピックにも出場して実績を積み上げるとともに、レベルアップして北京での好成績につながったものだが、小兵の彼女たちが大柄な外国チームを相手に、技術とランプレーで勝利をつかんでゆくのを見ながら、私はむしろ40年前の日本代表よりも、さらに古い時代、72年前の36年8月のベルリン・オリンピックで長身、大型選手ぞろいの優勝候補、スウェーデンを小柄な日本チームが破った試合に思いを巡らせていた。

 竹内悌三さんは、この日本代表のキャプテンであり、学生選抜の中で、ただ一人の社会人、26歳の会社員であった。名門の東京府立五中(現・都立小石川高)、旧制浦和高(現・埼玉大)から東京帝大(現・東京大)でプレーした。
 ポジションはFB(フルバック)、今でいうDF(ディフェンダー)。浦和高ではCH(センターハーフ)。そのころは2FBシステムで、CHは守備だけでなく攻撃にもかかわる、いわば攻守の要だった。
 30年の第9回極東大会で初めてJFAが選抜チームによる日本代表を編成したとき、竹内さんはFBでプレーし、それ以来、このポジションに定着した。6年後のベルリンでは大会間際に3FBシステムを取ることになって、従来のやり方を変更したが、CFBの種田孝一や右の堀江忠男、左の竹内悌三たち3選手の理解が早く、新しいやり方は効果を表し、これが対スウェーデン戦の勝利の一つの原因といわれた。
“理詰めで、それでいて、剛も備えた名FB”とは、この人をよく知る東大の先輩、竹腰重丸さんの言葉。
 人柄といい、プレーヤーの実績といい、サッカー界にとっても大切な人――竹内さんはベルリンのあとも後輩を指導し、レフェリーを務めていたが、陸軍に召集され、終戦後、シベリアに抑留されて46年4月に病死された。


スポーツへの打ち込み

 私が竹内悌三さんについて知ったのは、田辺五兵衛さん(故人、JFA副会長)の話から、「モクさん」というニックネームとともに、きちんとキックできるDFと教えられた。ニックネームの由来はいまだによく分からないが、黙々と真面目に練習するところからだろうか――とも想像している。
 竹内さんに強く惹かれたのは、当時として代表選手のキャリアが長いことだった。
 そのモクさんのサッカー生活を振り返ると――。
 スタートは東京府立五中で3年生の頃に蹴球部が生まれ、対外試合をするようになった。五中は後に名選手を多く生み出すようになり、岡野俊一郎JFA最高顧問もここの卒業生だが、大正末期の竹内さんの頃は先輩もいなくて、満足な指導も受けられず伝統のある東京高等師範付属中学に比べると技術も劣り、松丸貞一、長坂謙三(後に慶応大で活躍)たち熱心な仲間とともに「打倒・高等付属中」を目標にしながら、果たさぬまま卒業した。
 モクさんが自分のプレーに自信を持つようになったのは、浦和高に入ってから。旧制の高等学校特有の“何かに打ち込む”という生活は、サッカーに向けられたようだ。

 蹴球部では自分が引っ張るかたちになったことで、よけいに努力を重ねたらしい。府立五中の記念誌への寄稿文を読むと「出場した全試合(ベルリンにはまだ出場していないとき)の中で、自分に最も重大だった試合は浦和高2年の夏の静岡高(現・静岡大)との対抗試合と第9回極東大会対中華民国3−3(引き分け)の二つ」と書き、もし、生涯ただ一つを選べといわれれば、対静岡高戦だがと述べている。
 日本代表として歴史に残る中華民国との引き分けよりも、高校の時の試合を第一とするところが、竹内さんらしくもあるとともに、当時の旧制高校生のこの時代への愛着、文字通りサッカーに打ち込んだ自分に誇りを持つ気風が表れている。

 その浦和高時代に東大の鈴木駿一郎さんの指導を受けたのも、上達した理由の一つ。
 鈴木さんは電柱を相手にキックの練習を繰り返したという伝説の主で、自分で工夫することを大切にし、時おり、いいヒントやアドバイスをしてくれたという。自ら考え、理詰めのプレーをする竹内さんのキック力が伸び、極東大会の対中華民国戦でも、この人のロングパスからのチャンスがあったのも、こうした高校生時代の練習がもととなったようだ。

 もっとも、浦和高のチームとしては、竹内さんの時代は全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)での優勝記録はなく、2年生のときに準決勝で広島高(現・広島大)に負け、3年のときには準々決勝で早稲田高等学院に敗れている。それぞれの相手がその年の優勝チームだったから、やはり伝統校には勝てなかった。インターハイそのものは、必ずしも当時の最高レベルの学生大会とはいえないが、旧制中学を卒業して、18、19歳から20、21歳ごろまでの3年間をみっちりサッカーに取り組むことで、体力と基礎技術を高め、技術、戦術を考え、勉強することでサッカーへの理解が進む時期だった。  この旧制高校の3年間、今でいえば高校を出てJのクラブに入ってからの2〜3年の時期に、自らを鍛えたことが竹内さんの東大でのディフェンダーとしての成功につながったといえる。


竹内悌三・略歴

1908年(明治41年)11月6日、東京生まれ
1921年(大正10年)4月、東京府立第五中学(現・都立小石川高校)に入学
1924年(大正13年)五中に蹴球部が創設され、サッカーを始める
            9月、東京高等師範主催の第1回全国中等学校蹴球大会に出場、2回戦で敗退
1925年(大正14年)9月、第2回全国中等学校蹴球大会に出場、準々決勝で高師付属中学に敗れる(0−2)。高師付属中学が優勝
1926年(大正15年)府立五中を卒業、旧制浦和高校(現・埼玉大学)に入学。蹴球部に入り、練習に打ち込む
1927年(昭和2年)1月、第5回全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)に出場。1回戦で新潟高校(現・新潟大学)を4−0、2回戦で早稲田高等学院(早高)を2−0で破り、準決勝で広島高校(現・広島大学)に0−3で敗れた。ポジションはHB。広島高には後に東大でチームメートになる手島志郎、野沢正雄がいた
1928年(昭和3年)1月、第6回インターハイは3回戦(準々決勝)で早高に敗れた(1−2)。早高が優勝、早高には後に日本代表コーチとなる工藤孝一がいた
            4月、東京帝国大学(現・東京大学)に入学、サッカー部に入り、秋のリーグ戦に出場。以来、1931年までの在学中に東大は関東大学リーグ4年連続優勝。ポジションはFBまたはHB
1930年(昭和5年)5月、第9回極東大会に日本代表として出場。フィリピンを破り(7−2)中華民国と引き分け(3−3)で1位となる
1932年(昭和7年)東大経済学部卒業、東京火災保険株式会社(現・損害保険ジャパン)に入社
1936年(昭和11年)8月、ベルリン・オリンピックの日本代表となり、1回戦でスウェーデンに逆転勝ち(3−2)。準々決勝でイタリアに敗れる(0−8)。大会後、イタリアやイングランドなどを2ヶ月にわたって観戦した
1944年(昭和19年)召集、兵役に
1945年(昭和20年)終戦、シベリアに抑留
1946年(昭和21年)4月12日、シベリアで戦病死


★SOCCER COLUMN

極東大会代表はインターハイの名手たち
 第9回極東大会は、日本が中華民国と引き分けて、初めて東アジアのトップに立った記念すべき大会。この成功を足場にベルリン・オリンピック参加へと道が開けるのだが、別表はその出場選手たちの出身校の一覧。旧制中学校で基本を覚え、さらに旧制高校での“鍛錬”によって力をつけた選手たちが、東大の関東大学リーグ6連覇を支え、また日本代表の基盤となったことが見て取れる。

第9回極東大会出場メンバー
    名前    所属チーム、出身校
GK  斉藤才三 (関学大、桃山中)
FB  竹内悌三 (東大、浦和高、東京府立五中)
    後藤靱雄 (関学大、関学中)
HB  本田長康 (早大、早高、高師付属中)
    井出多米夫(早大、早高、静岡中)*
    竹腰重丸 (東大、山口高、大連中)
    野沢正雄 (東大、広島高、広島付属中)
FW  春山泰雄 (東大、水戸高、高師付属中)
    若林竹雄 (東大、松山高、神戸一中)
    市橋時三 (慶応大、神戸一中)*
    手島志郎 (東大、広島高、広島付属中)
    篠島秀雄 (東大、東京高、同尋常科)
    高山忠雄 (東大、八高、神戸一中)
※ *はその上の選手の交代出場
※ 広島付属中は、広島高等師範付属中学校、高師付属中は東京高等師範付属中学のこと

(月刊グラン2008年10月号 No.175)

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