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サッカーは英国の鉄道人から

「オリエンタル(ウルグアイ)は

独立国でなければ ならない

自由でなければ

名誉 ある 死だ……」

 という国歌に唱われた独立を得たのは1828年。その新しい国へサッカーが持ち込まれたのは1870年ごろ。アルゼンチンなどと同じように、鉄道を建設するために多くの英国人が滞在し、そんななかで自然にサッカーが広まっていった。1882年に英国人学生のなかにスポーツクラブが生まれ、モンテビデオで試合が行なわれるようになる。今のデフェンソール・クラブのグラウンドがあるプンタ・カレタスで、定期的なゲームが最初に行なわれたという記録もある。

 1891年にウルグアイ中央鉄道クリケット・クラブが、鉄道の従業員によって創られ、次の年の1892年にサッカー部門も生まれた。略称C・U・R・C・Cのこのクラブは、後に土地の名前から「ペニャロール」と改名するが、ペニャロールが英国人の手でスタートしたのに対し、ウルグアイ人によるサッカークラブとして、1899年に「クルブ・ナシオナル・デ・フットボル」が設立された。

 その翌年、1900年にウルグアイ・サッカー協会が設立され、ウルグアイ・リーグも発足すると、その5年後の1905年に、アルゼンチンのブエノスアイレスで、アルゼンチン対ウルグアイの試合が行なわれた。この試合は英国人のサー・トーマス・リプトンからカップが贈られ、南米大陸での最初の定期的な国際試合となった。すでに1901年から両国の交流試合はあったが、このリプトン・カップの盛り上がりで、つぎつぎに両国の対抗戦が新しく組まれた。1905年から1910年まで、両国は16試合を戦い、アルゼンチンの9勝、ウルグアイの3勝、引分け4となっている。

 1910年には、この両国の対抗戦に、新たにチリが参加する。そして1916年にはブラジルを加えて4か国の大会が始まり、次の年、1917年には正式の南米選手権に発展する。こうして第1次大戦(1914年〜1918年)の間、中立国として農産物の輸出で富を築いたアルゼンチンとウルグアイによって、南米サッカーの国際舞台は広がっていった。

(サッカーダイジェスト1990年4月号より)

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