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30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)

東大黄金期のCH

 東京府立五中(現・都立小石川高校)でサッカーの面白みを知り、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)でサッカーに打ち込んだ竹内悌三さんは1928年(昭和3年)4月、東京帝国大学(現・東京大学)に進んだ。
 1924年(大正13年)に発足した関東大学リーグは、初年度は早大(1部6校)第2回(25年)は東京高等師範が優勝し、26年の第3回に東大が勝ち、第4回(27年)も連続優勝していた。それは、この連載ですでに紹介しているとおり、23年に創設された全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)によって、全国の旧制高校が急速にレベルアップし、各高校のトップ級のプレーヤーが東大に集まったからでもあった。その俊英たちのリーダーとなったのが、山口高等学校(現・山口大学)から25年に入学した、通称・ノコさん、竹腰重丸(06〜80年)だった。
 ノコさんが卒業した29年から竹内さんは、CH(センターハーフ)のポジションを受け継ぐ。当時は2FB(フルバック)システムで、CHは攻守の要。広い地域をカバーしつつ、パスを出し、ドリブルで持ち上がる――といった、技術も高く、体力の優れた選手の役柄だった。

 28年の東大は秋のリーグ(1部6校)で5戦全勝、得点33、失点わずか4の圧倒的な成績で優勝。29年も5戦全勝、得点30、失点6で関東大学リーグを4連覇した。この年から始まった東西大学対抗(東西カレッジリーグ争覇)で、関西学生リーグのチャンピオン、関西学院大学と対戦(12月25日、明治神宮競技場)し、3−2で勝った。関西学院は、この年、11月1日に行なわれた明治神宮競技大会蹴球決勝兼第9回全国蹴球選手権決勝で関東代表の法政大学を破って優勝。GKに斉藤才三、CHに後藤靭雄、FWに堺井秀雄、檀野義雄、東浦安洋、島寿貞たちがいた強チームで、それに勝った東大は実力日本一と評価された。
 このときの東大イレブンは、FWが右から高山忠雄、篠島秀雄、手島志郎、若林竹雄、春山泰雄、HBが大町篤、野沢正雄の両サイドにCHが竹内悌三、FBが岸山義夫と船岡鉄司、GKが阿部鵬二だった。
 この顔ぶれの面白さは、攻撃力随一といわれたFW5人の年齢の幅の大きいこと。このころは普通なら、旧制中学5年、旧制高校3年、大学3年で卒業することになっていたが、サッカーに打ち込むあまり、修学年限を延ばす者もあった。FWで一番年少の篠島は10年(明治43年)生まれで、19歳の東大2年生。攻撃のパートナーの手島は1年生だが、07年生まれ。若林、春山は手島と同年代で、春山は水戸高等学校(現・茨城大学)時代に27年の極東大会日本代表に参加した経験を持つ。最年長は右ウイングの高山で07年生まれ、神戸一中(現・神戸高校)では若林の3年先輩。同じ大学2年の篠島とは6歳の開きがあった。いわばティーンエージャーから25歳まで、学生チームとしては異色のメンバー構成という“強み”があった。
 竹内さんはこれらの仲間とともに、東大サッカーの黄金期のCHを務めたが、次の年には日本代表に入ることになる。


先輩の代役で極東大会1位

 1921年(大正10年)に設立された大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の目標の一つが中華民国(現・中国)に追いつき、追い越すことだった。日本が初めて第3回極東大会に出場して以来、中華民国にもフィリピンにも負け続けていたのが、27年(昭和2年)の第8回大会でようやくフィリピンに勝つことができた。30年5月に東京の明治神宮競技場で開催される第9回大会では中華民国に勝って、東アジアの1位になりたいと考え、努力してきた。
 29年のJFAの役員改選によって新しく理事長になった鈴木重義(02〜71年)が中心となり、初めて選抜チームで代表チームをつくることを計画し、関東、関西の大学リーグの優秀選手を集めて、強化・選考合宿を行なった。
 個人能力の高い中華民国に対して組織プレーで対抗するために、“日本一”の東大が主力となったが、合宿中にFBの岸山義夫が過労で倒れた。その交代に20歳の竹内悌三さんが選ばれたのだった。2FB制のもう一人の代表FBは、関西学院大のキャプテンだった後藤靭雄。ほかにもFBの経験者はいたが、竹腰重丸コーチはあえて竹内さんを指名した。特殊なポジションプレーは岸山先輩ほどでなくても、体力があり、基礎技術、特にキックのしっかりしたところを買ったのだろう。
 この大会で、5月22日の対フィリピン(7−2)29日の対中華民国(3−3)の2試合に竹内さんはフル出場して、ノコさんの期待に応えた。

 1勝1分けで中華民国とともに1位となった日本サッカーは、体育協会の中でも認められるようになり、それまでは時期尚早とみられていたオリンピック参加への動きも出始めた。
 残念なことに、2年後のロサンゼルス・オリンピックは、プロ・アマ問題(大会のため長期に職場を離れる欧州の選手たちが、休業期間中の給与の補償をそれぞれの協会から受け取るかどうか)の解決がつかず、サッカーの開催は取り止めになってしまう。
 32年に東大を卒業した竹内さんは、東京火災保険株式会社(現・損害保険ジャパン)に入社した。


ベルリンの奇跡。その後もサッカー漬け

 竹内悌三さんの父、悌三郎さんは徳川家の御家人で、明治維新のときには榎本武揚の下で函館の五稜郭で韓軍を相手に戦ったこともあるが、安田財閥の創始者・善次郎の知遇を得て、同財閥の大番頭となった。
 同じ金融でも銀行でなく保険を選んだのは、その将来性を見込んだということ。もちろん、家系から見て、会社側も将来の幹部と見込んでいたはず。そうした新しい環境の中でも竹内さんはサッカーへの情熱を絶やさずに、東大のサッカークラブ、東大LBの試合や東西対抗などに出場していた。

 1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックの選手選考の際には、33年から関東大学リーグで3連勝し、また東西対抗でも勝っていた早大を主力としたチームの成功体験から、10人の早大勢に、東大からFBの種田孝一、FWの高橋豊二、慶大FWの右近徳太郎、朝鮮・普成専門学校HBの金容植、東京高等師範FWの松永の5人の学生選手と、東大OBの竹内さんが加わり、竹内さんはキャプテンの重責を担った。
 36年のベルリン・オリンピックの対スウェーデン逆転劇についてはすでに多く語られ、私もこの連載でも述べてきたからあえて詳述はしないが、チーム一丸となっての勝利の陰には、鈴木重義監督、竹腰重丸、工藤孝一コーチ、竹内悌三主将たちの間の信頼関係と、それぞれの人柄によるチーム全体の雰囲気への影響が大きかったと推察している。

 ベルリン大会が終わった後、竹内さんは欧州各地のサッカーを見て回った。
 海外からの知識の吸収に熱心だったこのころのサッカー人には、自ら英国やドイツのテキストやハンドブックを取り寄せて勉強する人も多かったが、イタリアやイングランドのリーグ、また欧州での国際試合を実際に自分の目で見た竹内さんのリポートは、次の世代にも大きな影響を与えた。
 帰国後ももちろん、ノコさんたちとともに後輩を指導し、レフェリーを務めるなどサッカーの普及に力を尽くした。
 44年に応召し、戦後、シベリアに抑留されて46年4月に戦病死――という悲劇で、38歳という若さで去ってしまったが、若いころのサッカーへの傾倒とベルリン以後も「黙々と」サッカーを楽しみ、勉強していたことを知れば知るほど、惜しい先輩を失った悲しみがこみ上げてくる。


★SOCCER COLUMN

照明デザイナー、高校選手権。竹内家とサッカーのかかわりは……
 9月10日は日本サッカー協会の創立記念日で、さまざまな催しがあったが、東京・文京区のJFAハウスでは、この夜からライトアップが行なわれ、犬飼基昭JFA会長、川淵三郎・日本サッカーミュージアム館長と照明デザイナーの石井幹子(もとこ)さんが出席して、点灯セレモニーの後、JFAハウスがさわやかなジャパン・ブルーの光に包まれた。
 石井さんは照明デザイナーとして、日本、世界を舞台に活躍し、北米照明学会や国際照明デザイナー協会などから数々の賞を受けているが、実は竹内悌三さんの長女。
 幹子さんの弟の長男、竹内宣之さんによると、先輩のいない旧制府立五中で旧制高等師範付属中学に勝てず苦労したところから、子どもたちは付属へ――ということになり、宣之さんも、二男の保堯さんも教育大学付属高校でサッカーをしていた。
 父・悌三さんについてはほとんど記憶がないが、高校選手権大会などで役員たちから、竹内悌三の子どもと注目されたという。

 ちなみに宣之さんは1960年(昭和35年)1月、西宮球技場での第37回全国高校選手権大会に東京代表、教育大付属の左のSHとして出場し、準決勝まで進んで、山城高校に敗れている(山城高が優勝)。山城高は釜本邦茂が出る少し前のこと。教育大付属には山田通夫がいて、第1回アジアユースの日本代表(宮本輝紀、杉山隆一がいた)となった。私もこのころ、大会の優秀選手選考委員をしていて、アジアユースにもかかわっていた。大先輩の竹内悌三さんと私との間のサッカーの不思議なつながりといえる。


(月刊グラン2008年11月号 No.176)

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