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大戦直後、ディナモの英国ツアー

 ソ連のサッカーについて、戦中派の私が最初に知ったのは、1945年のディナモ・モスクワの遠征試合だった。
 第2次大戦が収まったこの年(昭和20年)11月、帝政ロシア時代に創立の歴史を持つ名門ディナモ・モスクワは、スウェーデン、イングランド、ウェールズ、スコットランドを歴訪。ルシェービング(スウェーデン)を5−0で破り、チェルシー(イングランド)と3−3の引き分け、カーディフ・シティ(ウェールズ)を10−1で破り、アーセナル(イングランド)に4−3で勝ち、最終戦の対グラスゴー・レンジャーズ(スコットランド)にも2−2と引き分けた。

 ヒトラーのナチス・ドイツとともに戦ったソ連、しかも、1917年のロシア革命以来、ほとんどスポーツ交流のなかった国からチームがやってくる――というので、ロンドン市民の関心は高く、英国での第1戦のスタンフォード・ブリッジ球場には8万人の大観衆が集まった。
 戦時中は、国民の最大の楽しみであるプロ・リーグも、北部と南部の地域制となり、いわゆる「ウォータイム(WAR TIME)フットボール」という変則体制をとっていた。それが、戦争が終わり、経済はまだ苦しいながら、解放された気分でいるところへ“珍客”の到来だったから、よけいに人気は高まったのだろう。
「ロシア人も英国人と同じルールでフットボールをするらしい」という感覚で集まってきたファンは“珍客”たちの見事なパスワーク、ボール扱い、スピーディーな動きにすっかり魅せられてしまった。
 社会主義国家のトップチームの選手たちは「プロ」ではないハズなのに、サッカーの本家、イングランドのプロを相手に、互角以上の試合を見せたのだから…。

 翌日の新聞は、ロシア人のサッカー・チーム、ディナモ・モスクワの記事であふれかえった。ディナモが、その年のリーグ22試合で40ポイントをあげて優勝したこと。ゴール総数は73、失点は13という驚くべき記録を持っていること。観衆がスタンドからはみ出して、タッチラインのそばまであふれていたこと。スタンドの屋根に登り、落ちて病院に担ぎ込まれた者がいたこと……。
「ナチスの幹部たちは、ニュルンベルクで捕えられているいま、ベールに包まれていた同盟国からサッカーのチームがやってきて試合をした。これはまさに“勝利のとき”といえる」という記事もあった。

 元プロ選手で、有名な記者でもあったイバン・シャープは「彼らのプレーは素晴らしい。斬新で、ロンドンっ子にとって誇りに思えるほどだった。戦争をともに戦ったロシア人は、雄々しく男らしかったが、フットボーラーも同じだった。ただし、未知数で不思議な男たちでもあった」と書いている。不思議な男たちは、記者に一言もしゃべらなかったという。

 イングランドきっての名門アーセナルとの試合は、豆のスープのような濃い霧の中で行なわれ、ディナモが2−3から4−3と試合をひっくり返した。ボールは見えず、アーセナルのGKグリフィスは負傷して退場するありさまだったが、ともかく試合は終了した。そして、この“見えない試合”を5万人の大観衆が“観戦”した。そして、最終のグラスゴー戦には9万人が集まった。

 ディナモ・モスクワのツアーは大成功だった。英国人は、ロシア人も同じようにサッカーをすることに満足を覚え、ソ連側は、ロシア人のスポーツ・マインドと、彼らのスポーツへの取り組みが優れていることに自信を持った。科学的なトレーニングと、戦術の研究で“本家”を驚かせたのだから……。


(サッカーダイジェスト 1990年7月号「蹴球その国・人・歩」)

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