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綿工場からサッカー

 1945年11月といえば、私は大戦中、学業の途中に軍隊に入り、戦争が終わって帰ってきたときだから、このニュースをすぐに知ったのか、しばらく経ってから聞いたのか、よく覚えていない。
 次の年の2月、東西対抗戦を行なうための練習に集まったときに、田辺五兵衛さん(故人)から教えてもらったのかもしれない。ソ連のチームがアーセナルに勝ったというだけで、すっかり感心したものだ。ディナモ・モスクワの名は、そのころから頭のなかに刻み込まれた。

“ディナモ”というのは、英語ではダイナモ(DYNAMO)つまり発電機という意味で、ソ連では電機労働組合のスポーツクラブの名前になっている。ディナモ・モスクワの歴史は古く、革命以前、ロシアに皇帝(ツアー)が君臨していた19世紀にはじまる。
 ソ連のサッカーの公式の歴史では、サンクトベテルブルグ(いまのレニングラード)のアマチュア・スポーツクラブが、サッカーチームを創った(1897年)のが始まりとなっているが、それより10年ばかり前に、モスクワの東方80キロにある、オレボ・ボズエボの綿工場を経営する英国人、クレメンテ・シェーノックが工場の若者を集めてチームを創ったのが最初(という英国人の説)。
 彼はポケットマネーで英国からボールを取り寄せ、自分がファンであったブラックバーン・ローバーズと同じ青と白のシャツをつくり、白いニッカーもそろえ、また、クツの裏にスタッドを打ち付けるための機械を工場に用意し、どんなクツでも、これを使ってサッカー用に変えたという。
 この「モロゾフ綿工場チーム」は、クレメンテ・シェーノックの努力で芝生の練習場も使えるようになり、また、英国の新聞に「ロシアの工場で働くエンジニア、機会工、事務員を募集。特にサッカーができる人を望む」といった広告を出して、チームの強化を図った。

 モスクワでリーグが始まるようになると、英国人子弟のチームも多く参加したが、このモロゾフ綿工場のチームは、英国人チームを抑えて5年連続優勝。そして、の後に、このチームをモスクワに移し、いまのモスクワ・ディナモの基礎となった。
 20世紀のはじめ、このチームの試合には、いつも1500人前後の観客が集まったというから、帝政時代のロシアで、ちょっとした人気チームだったといえる。


(サッカーダイジェスト 1990年7月号「蹴球その国・人・歩」)

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