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革命とともにスポーツも変革

 ヨーロッパ化、つまり西欧の文化を取り入れるのに熱心だった宮廷と政府は、スポーツの普及も一つの手段と考えたに違いない。1912年のストックホルム・オリンピックに選手団が送られ、サッカー競技にも参加した。フィンランドに敗れて上位進出はならなかったが、このオリンピック参加は、国際交流を促進することになる。ただし、それも第1次大戦によってストップ。というより、大戦に続く革命で、ロシアの社会は大きく変わる。
 社会主義体制になって、政府はスポーツを奨励する。労働組合別のスポーツクラブが生まれるなかで、モロゾフ工場を基礎とするチームが、電機労連クラブ「ディナモ・モスクワ」となる。
 この産別スポーツクラブは各都市に誕生し、ディナモはミンクスにもキエフにも創られる。現代のヨーロッパで、トップにあるディナモ・キエフも、ウクライナの電機労働組合のクラブである。
 スパルタクは生産者組合のクラブ、CSKA(中央陸軍の略称)は陸軍のクラブ、トルペドは自動車労働組合のクラブということになる。

 こうしたスポーツクラブ(労働者の)は、1920年代から30年代に創られ、トルコなど近隣諸国との交流も行なわれるようになったが、やがてスターリン時代となって、すべてが秘密のベールに隠され、さらにヒトラーの東方作戦のため、ソ連の国土も戦場となってしまった。
 そんな後での、1945年のディナモ・モスクワの英国ツアーだったから、ディナモの勝利が、どれだけソ連のスポーツ関係者に自信を植えつけ、国民に社会主義体制の優秀性を認めさせたことか――。


(サッカーダイジェスト 1990年7月号「蹴球その国・人・歩」)

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