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52年、メルボルン五輪の優勝

 スポーツと社会主義体制の優秀性を見せ、ショーウィンドウとする奨励策もあって、帝政時代からすでに根を下ろしていたサッカーは、西はレニングラードから、東はウラジオストックまでの、広大なソ連の全土に広まり、辺境の町にもゴールが立つようになった。まだソ連がオリンピック参加する以前、1936年のベルリン・オリンピックに出場した日本のサッカーチームは、シベリア鉄道経由での旅行中に、小さな村でもゴールポストを見たという。また、駅員たちと「サッカーの話なら」通じたという。
 第2次大戦直後からシベリアで抑留生活を送った日本のサッカー人のなかに、シベリアの寒村に「ディナモ・モスクワがイルクーツクへ来て試合をする」というポスターを見た人もいたし、モスクワに近い都市では、ソ連のリーグ戦を生で見て、そのレベルの高さに驚いた人もいたという。

 1952年のヘルシンキ・オリンピックに参加したソ連は、2回戦で技巧派のユーゴスラビアとの試合で、大量のリードを跳ね返し、5−5の引き分けに持ち込むタフな試合ぶりで強い印象を残し(再試合で敗退)、4年後のメルボルン・オリンピックで初の金メダルを獲得する。
 この大会には日本代表も出場したが、1回戦で敗れた彼らは、スタンドでソ連の試合ぶりに圧倒され感激したという。12年後のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得し、日本チームの核となった八重樫茂生や、指導した長沼健、平木隆三などは、このときの感動が、1回線敗退の失望を乗り越える力となったたという。

 GKヤシン、FWにシモニアンなどがいたこの五輪優勝チームも、58年の初のワールドカップでは準々決勝で退く。もっとも、1次リーグでイングランドと引き分け2−2)ブラジルに敗れ(0−2)オーストリアに勝った(2−0)あと、順位決定のためのグラウンドと再試合(1−0)を戦うという悪条件だった。ここでワールドカップ、いわば世界のカベの厚さを知ることになった。


(サッカーダイジェスト 1990年7月号「蹴球その国・人・歩」)

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