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東欧諸国のオリンピック

 第2次大戦後、ソ連の社会主義が東欧諸国にも植えつけられ、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアなども社会主義政権のもと、ソ連に似たスポーツの奨励策をとった。これらのどの国もが戦前からサッカーが普及していたこともあって、ますますサッカーは盛んになり、レベルアップした。ヘルシンキ・オリンピック以来、80年のモスクワ大会までの8回のオリンピックでは、ソ連、東欧諸国がいつも金メダルを取り、上位を占めた。

 ソ連のサッカーは、16チームの選手権リーグをトップに、地域リーグから下部につながる組織が整然とできていて、450万を越える登録プレーヤーのうち、青少年が半数以上を占め、未登録の少年たちの大会も毎年開催される。

 こうした組織的な育成は、常にトップリーグの水準を保ち、上位のクラブでは西欧のプロに匹敵する力を持つというのが常識とされてきた。
 プロフェッショナルではないにしても、試合のために職場を離れ、職場からの給料が減らされても、その分はクラブが支払う(ブロークンタイム・イベント)システムが早くから導入され、試合の経費、トレーニングの経費もすべてクラブが持つ。大戦直後の食料や物資が乏しいころには、特別の配給が選手に支給されていた。
 こうしたことから、プロの選手の参加を認めないオリンピックでは、水準も高く、また、待遇面でもアマより優遇されている東欧のプレーヤーが、好成績を挙げるのは当然のように見られていた。


(サッカーダイジェスト 1990年7月号「蹴球その国・人・歩」)

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