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日本の進歩を助けた日ソ交流

 1960年から約10年間、東京からメキシコへかけての2つのオリンピックを目指す日本にとって、東欧は一つの目標だった。そして、ソ連のサッカーは、実地にトレーニングを積む相手としてありがたい“先生”でもあった。
 ロコモティフ・モスクワ、名のとおり鉄道員組合のクラブ(ロコモティフ=機関車)は、個人技の高さとスピードで、日本サッカーに大きな刺激を与えた。ディナモ・モスクワも来日し、スウェーデンの若い代表チームと欧州人同士の試合を日本人の目前で見せた。
 トルペド・モスクワは、ソ連のプレーヤーとしては変種ともいえる得点王イワノフを中心に、変幻の攻めを展開した。カチャーリン監督率いるソ連オリンピック・チーム……。来日した一つひとつのチーム、そのプレーヤーを書き出せば、一つの記録本ができるほどだが、当時の私たちには、ロシア人のボール扱いが、なぜこんなに日本人より上なのか不思議に思えた。いわば、彼らはサッカーの基本はボールテクニックであり、これは、何も南米の専売ではないことを実際に見せたのだった。

 こうしたソ連や東欧勢も、ワールドカップではタイトルに縁がない。1954年のハンガリーは、その実力から見て大きなチャンスだったが、決勝で西ドイツに敗れ、70年はオリンピック・チャンピオン、ポーランドも3位に留まった。
 52年と88年の2度のオリンピック優勝のソ連もまた、ワールドカップではベスト4に進出したのが一度、あとはベスト8止まりだった。


(サッカーダイジェスト 1990年7月号「蹴球その国・人・歩」)

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