賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1930年ウルグアイW杯「W杯開催とセンテナリオ競技場」

1930年ウルグアイW杯「W杯開催とセンテナリオ競技場」

 アルゼンチンとの対抗戦で大国に負けぬ工夫をし、技術を高めたウルグアイのサッカーが世界に認められるのは、1924年のパリ・オリンピック。

 南米から初参加のウルグアイ代表は、その卓越したボールテクニック、シュート力、攻守のチームワークのすべてにヨーロッパ人を驚かせた。2FBシステムの当時、3人のHB、つまりアンドラーデ、ヘスティド、CHのフェルナンデスの作る中盤は“鉄のカーテン”と呼ばれたほど相手に重圧を加え、“魔術師”スカローネとセアとペトローネのFWのセンタースリーは凄まじい破壊力を見せた。決勝のスイス戦(3−0)を含んで1回戦から合計5試合で得点20、失点2だった。

 次の1928年のアムステルダム・オリンピックでもウルグアイが優勝した。今度はライバルのアルゼンチンも参加し、決勝は両チームで戦い1対1で引き分けた後、再試合を2−1で勝った。アマチュアが相手といっても、南米の両国の力がヨーロッパを抜いていたことを示した大会といえた。

 プレーヤーの参加資格をアマチュアと制限していたオリンピックとは別に、プロもアマも、すべてのサッカー人の真の世界一を決める大会を持とうとFIFA(国際サッカー連盟)が計画していたとき、ウルグアイは建国100年の事業としてセンテナリオ競技場を造り、大会を誘致することにした。

 センテナリオ競技場は、1930年7月18日、開催国ウルグアイが登場する直前にようやく開場。8万人収容の大スタジアムで、代表チームはペルー、ルーマニア、ユーゴを撃破し、宿敵アルゼンチンを再び決勝で倒して(4−2)、ジュール・リメ杯を手にしたのである。

 モンテビデオ市民の熱狂と、ラプラタ河を渡って大挙して乗り込んできたアルゼンチン・サポーターの情熱、その悲喜こもごもが、欧州からの記者によって世界に伝えられ、南米サッカーの風土とレベルの高さも広く知らされたのだった。

 まだ飛行機の旅客輸送が発達していなかったころで、船による長旅を嫌って、ヨーロッパのサッカー先進国の参加は少なかったが、“遥かな国”でのW杯の成功が、今日の世界のサッカーの大降盛の大きなステップとなった。

 エスタディオ(競技場)センテナリオは、モンテビデオ市のメインストリート「7月18日通り」の突き当たり、ホセ・バ―ジェ・イ・オルドニェス公園にある。今でもペニャロールとナシオナルのホームゲームの競技場となり、ウルグアイ代表チームのホームグラウンドとして、市民に欠くことのできぬ心の故郷(ふるさと)だ。

 大正13年(1924年)に甲子園球場を造った阪神電鉄の首脳に、私は、いつも明治生まれの経済人のスケールの大きさに感心するが、それにもまして、1930年、当時は人口50万人ぐらいだったはずのモンテビデオ市に、サッカー専用の大円形スタジアムを築いたウルグアイ人に驚くほかはない。

 そしてまた、その球技場のデザインの点でも、周囲の景観との調和の点でも、60年を経たいまも、まったく古く感じないの素晴らしく「世界のサッカーのモニュメント」(アベランジェFIFA会長)と呼ぶにふさわしい。

 1990年に、イタリアのミラノを訪れ、同市のサンシーロ競技場がW杯へ向けて大改装をするのに、市当局の計画が、未来永劫に通用するデザインというところにあった、と聞いた。いろいろな事情があるにしても、日本の大規模な建設計画は、いつも、そのときの状況によって、滑走路一本の空港とか、とりあえず2万人のスタジアムとかいったものを造ってしまう。そんな私たちの周囲から見ると、“小さな国”のサッカー人の心は誠に巨大であった。

(サッカーダイジェスト1990年4月号より)

↑ このページの先頭に戻る