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速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)

テクニックの宮本

 日本サッカーが今日の“かたち”を築くまでに、そのときどきに功労があった人を訪ねるこの連載『このくに と サッカー』は、ここしばらく日本サッカー協会(JFA)の首脳であった先達について語り、また前号、前々号はベルリン・オリンピック代表チームのキャプテン、竹内悌三さんを紹介しました。今回は今から40年前の1968年(昭和43年)、メキシコ・オリンピックで銅メダルと獲得した代表チームのMF宮本輝紀についてです。

 68年のメキシコ銅メダルチームではストライカー釜本邦茂(メキシコ大会得点王)や俊足の左サイド杉山隆一、キャプテン八重樫茂生、代表のMF、DFで日本サッカーリーグ(JSL)5連覇の東洋工業のゲームメーカー、小城得達――たちがすでにこの連載に登場していますが、そうした仲間から“パスの名手”“ボールテクニック一番”と尊敬されたのがテルさん、宮本輝紀なのです。

“パワーの釜本”“スピードの杉山”“テクニックの宮本”――1960年代前半に現れた日本サッカーの若いスターたちを、当時のメディアはこう表現した。63年に早大に入学すると秋の関東大学リーグで得点王になって、華々しくデビューを飾った大型ストライカー、釜本邦茂、61年に代表入りし、その鋭いスピードにファンの目を見張らせた杉山隆一、ボールをきっちりと止め、味方へピタリとパスを合わせる巧みさと小さな振りで鋭いシュートを決める宮本輝紀。3人の個性は、日本サッカーが58年の第3回アジア大会(東京)での不振から立ち直り、64年の東京オリンピックに向かって代表強化を願うJFAにとって、長いあいだ待ちかねていた才能だった。


オリンピックに向けて

 1940年(昭和19年)12月26日生まれのテルさんは、大正年間からサッカーが盛んだった広島に生まれ育った。千田小学校のころからボールに触れ、国泰寺中学校、山陽高校でサッカーに夢中になった。高2、3のときに2年続けて秋の国体に出場、2回とも決勝に進み、2年の静岡国体では藤枝東に敗れ、3年の富山国体でも清水東に敗れた。清水東には、“俊足”杉山がいた。
 この山陽高校での活躍が買われて、テルさんは59年第1回アジアユース大会の日本代表に杉山とともに選ばれる。
 58年の第3回アジア大会のとき、東京で開かれたアジアサッカー連盟(AFC)の総会で、アジアでの若手選手のレベルアップのためにユース大会(20歳以下)を毎年開催することを決め、第1回の開催地をAFC会長であり、時のマレーシア首相、トンク・アブダル・ラーマンさんのお膝元のクアラルンプールで行なうことにしたのだった。
 JFAはこの大会に高校生の選抜チームを派遣することに決めた。年齢からゆけば1歳半ほどの差があって、実力的には不利であるが、チーム数も増え(800チーム近くになっていた)、各地域の実力アップが進み始めた高校サッカーへの刺激を考えてのことだった。選考対象は正月の全国高校選手権大会の出場選手ではあったが、宮本、杉山の両選手は国体でのプレーが高く評価されての選考だった。

 私がテルさんに会ったのは、このときが初めて。正確には59年3月31日の合宿初日だった。代表チームは高体連会長の石平俊徳団長(都立戸山高校校長)、高橋英辰監督たち役員4人、選手18人で、私はマネジャーで報道担当という役柄。いわゆるマネジャー(主務)役としては慶大OBの西本修吉さんがいたのだが、日本のスポーツ史上初めての高校生チームの海外遠征で、高橋監督をサポートする人数が多いほど良いというJFAの計らいで同行することになったもの。
 今のようにFIFA(国際サッカー連盟)の年齢別大会があり、そのそれぞれに日本代表が参加する――というような時代とは違って、東京オリンピックを5年後に控えた半世紀も前のこと。18人の高校生を海外の大会で試合させる“初体験”は、いま思い出しても冷や汗ものの連続であった。しかし、ともかく一行は1週間の合宿練習とわずかな準備期間を経て、4月13日に羽田空港を出発し、香港で1泊して体を慣らし、15日にクアラルンプールに着き、18日から25日までの大会に出場。初戦(18日)の開幕試合でシンガポールを破って(4−0)、Aグループ(勝者グループ)に入り、ここで韓国(2−3)、マレーシア(0−6)、香港(6−2)と戦って1勝2敗、3位入賞となった。高橋監督はせっかくのチャンスだからとマラッカで州選抜チーム、バンコクでタイのユース代表との試合を組んで、5月はじめに帰国した。

 アジア大会でも不成績が続いていた当時の日本サッカーにとって、この高校選抜の3位入賞はまたとない朗報で、JFAの野津謙会長は協会から参加メンバーに3位入賞記念として小さな盾を贈ったほどだった。
 JFAにとって、この大会の参加者からは将来、日本代表にどれだけのメンバーが上がってくるか――が狙いの一つだった。帰国早々、私が協会技術委員の川本泰三さんのところへ挨拶に行くと「何人いる?」と聞かれた。「2人、うまくゆけば4人います」と答えると、「それはすごい」と喜んでいた。
 私の答えの中に、宮本輝紀と杉山隆一が入っていたのは言うまでもない。
 私はこの2人の成長と、1期生ともいうべき彼らに続くアジアユース組2、3期生たちのレベルアップを眺めながら、64年東京オリンピック、68年メキシコ・オリンピックへこの世代が走り続けるのを見つめることになった。


宮本輝紀・略歴

1940年(昭和15年)12月26日、広島市生まれ
1953年(昭和28年)3月、千田小学校卒業
            4月、国泰寺中学校へ
1956年(昭和31年)3月、国泰寺中卒業
            4月、山陽高校へ
1957年(昭和32年)山陽高2年のとき、秋の静岡国体・高校の部で決勝に進み、藤枝東に敗れた
1958年(昭和33年)山陽高3年で秋の富山国体に出場、決勝で清水東に敗れ、2年連続国体準優勝となる
1959年(昭和34年)3月、山陽高を卒業、八幡製鉄に入社
            4月、第1回アジアユース大会(U−20、4月18〜25日、クアラルンプール)に日本代表として参加、3位入賞
1960年(昭和35年)10月、FIFAワールドカップ・チリ大会のアジア地域予選、対韓国戦の代表候補に選ばれる。ソウルでの第1戦(11月6日)には出場しなかったが、翌日に行なわれた対全韓国戦(2−2)でプレー。Aマッチではないが、代表デビューを果たした(19歳317日)
1961年(昭和36年)6月11日、ワールドカップ・チリ大会のアジア地域予選、対韓国戦・第2戦に出場、0−2で敗れた。初の国際Aマッチで、以来71年まで日本代表Aマッチの出場は58試合19得点(得点記録としては9位)
1964年(昭和39年)東京オリンピックに日本代表として出場。対アルゼンチン(3−2)対ガーナ(2−3)でグループリーグ突破。準々決勝でチェコスロバキアに敗れて(0−4)ベスト8止まり。大阪トーナメント(5、6位決定戦)では1回戦でユーゴスラビアに敗れた(1−6)
1965年(昭和40年)4月、日本サッカーリーグ(JSL)開幕。八幡製鉄は創設8チームの一つとなり、この年の第1回JSLでは11勝2分け1敗で東洋工業に次いで2位となる。
            また、この年の1月に開催された第44回天皇杯決勝で古河電工と延長、0−0の引き分け、両チームの優勝となった
1966年(昭和41年)1月の天皇杯で八幡製鉄は前年に続いて決勝に進んだが、決勝で東洋工業に3−2で敗れた。この年、JSLで八幡製鉄は東洋工業に次いで2位。
            12月、第5回アジア大会(バンコク)に日本代表として参加、3位入賞、銅メダル
1967年(昭和42年)9〜10月、メキシコ・オリンピックのアジア地区予選に日本代表として全5試合に出場。優勝して大会出場権を獲得
1968年(昭和43年)10月、メキシコ・オリンピックの全6試合に出場、3位入賞、銅メダル獲得に貢献
1969年(昭和44年)10月、ワールドカップ・メキシコ大会のアジア・オセアニア予選(ソウル)に出場した日本代表は、オーストラリア、韓国と各2回戦して2分け2敗で敗退。オリンピック銅メダルチームは釜本邦茂を欠き、チーム全体に伸び悩んだ。宮本は3試合に出場し2ゴール
1970年(昭和45年)12月、第6回アジア大会(バンコク)、釜本邦茂も復帰した日本代表だったが、準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦でインドに負けて4位。宮本は全7試合中6試合に出場して1ゴール
1971年(昭和46年)ミュンヘン・オリンピックのアジア東地区予選(9月23日〜10月2日、ソウル)で日本代表はフィリピン、台湾には勝ったが、マレーシアと韓国に敗れて2勝2敗で敗退。宮本はこの試合で代表から去った(10年113日)。杉山隆一、片山洋、宮本征勝もまた代表から引退した
1976年(昭和51年)新日鉄(前・八幡製鉄)でのキャリアを終え、選手を引退。JSL12シーズン138試合出場68得点31アシストの記録を残す。36歳。この後3年間、同チームの監督を務め、その後、大学チームの指導をした
2002年(平成14年)2月2日、没


★SOCCER COLUMN

掲額文にも“精度の高いパス……”
 日本サッカーの発展に大きく貢献した先駆者をたたえ、顕彰する“名誉の殿堂”が日本サッカーミュージアムに創設されたのは2004年。毎年、9月10日のJFA創立記念日にセレモニーとともに顕彰者の銅版が掲額されるが、メキシコ・オリンピック銅メダルのメンバーからは釜本邦茂、杉山隆一、宮本征勝、八重樫茂生、横山謙三、森孝慈、渡辺正、宮本輝紀、小城得達、片山洋、鎌田光夫、山口芳忠の12人が殿堂入りしている。ついでながら、監督だった長沼健(第8代JFA会長)コーチだった岡野俊一郎(第9代JFA会長)は選手、コーチとしてではなく協会会長として掲額殿堂入りしている。
 掲額者の銅版の下にそれぞれプロフィールが書き込まれている。テルさんについては代表での活躍についてだけでなく、八幡製鉄での実業団選手権2連覇、天皇杯優勝、さらには新日鉄監督、九州共立大学監督時代にも触れ、また、精度の高いパスと巧妙なボールさばき、シュートの正確性といったプレーについても書き込まれている。


(月刊グラン2008年12月号 No.177)

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