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1950年ブラジルW杯「マラカナンの悲劇を演出」

 プロフェッショナル制を導入したウルグアイは、しばらくオリンピックから遠ざかり、またW杯の本舞台にも姿をみせなかったが、1950年、第2次大戦後に再開されたW杯に乗り込んだ。

 開催国はブラジル。開催都市はリオ・デ・ジャネイロ、ペロオリゾンテ、サンパウロ、ポルトアレグレ、レシーフェ、クリチーバの6都市。大建築の好きなブラジル人はリオに20万人収容という、とてつもない大きさのマラカナン競技場を造った。ブラジルが全国民の希望を背にメキシコ(4−0)、スイス(2−0)、ユーゴ(2−0)と1次リーグを戦う間に、ウルグアイは同じ第4組の2チームが棄権したため、1勝だけで、休息を十分にとって決勝リーグに備えた。7月9日からの決勝リーグは、ブラジルがスウェーデンに7−1、ウルグアイがスペインに2−2。

 7月13日はブラジルがスペインに6−1、ウルグアイはスウェーデンに3−2。そして7月16日、ブラジル2勝、ウルグアイ1勝1分で迎えた最終日に、ウルグアイは緊張のあまり固くなった開催国を2−1で破った。「リオの街は死の街のように静まり返った」というのが、当時の新聞の表現。実際に失望のあまり自殺したブラジル人もいた。ウルグアイでもラジオを聞いていて、興奮のあまりショック死した人間が6人もいた。

 アルゼンチンをアムステルダムで、モンテビデオで破った“大国キラー”はここでも発揮された。

(サッカーダイジェスト1990年4月号より)

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