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エウゼビオ(1)C.ロナウドの活躍から思う、ポルトガルの“ブラックパンサー”

 東アジア選手権で、日本は北朝鮮に1−1、中国と1−0、2戦1勝1分けで最終の韓国戦でタイトルを懸けることになった。
 試合ぶりはテレビでも、新聞でもこの雑誌でも克明に伝えられているが、私には対北朝鮮の同点ゴールが、安田理大(G大阪)の左サイドの突破に続く高いクロス(ゴールキーパーの手に当たって落下)による前田遼一のヘディングであった点に、一つの進化を見た。

 ゴールラインぎりぎり、ペナルティエリアすぐ近くまで侵入したときに送るクロスのコースの一つに、「高いボールを浮かせて相手GKの上を抜いて、ファーポスト側の仲間へ送る」というものがあるが、ここしばらくの日本代表ではほとんどなかったプレー。それを若い安田が左サイドから左足で敢行したのが良かった。
 この位置からのこのボールによる成功は中村俊輔の1個があった以外は記憶になく、まずは“攻め手”が一つ増えたことを喜びたい。今度の東アジア・重慶シリーズは、選手たちには相手の反則プレーも多くて大変のようだが、チーム力は目に見えてアップしている。韓国ともタフな良い試合を期待することに――。

 さて、記憶に残るストライカーは、ブラジルのロナウドの後、少し古いところに戻って、今回からポルトガルのエウゼビオ――。
 多くのメディアや評論家が決める20世紀のランキングでいつも10指に入る選手である。たまたま、NHK-BSテレビでのイングランド・プレミアリーグ、マンチェスター・Uの試合を見ていて、ひときわ目立つポルトガル人のクリスチアーノ・ロナウドのプレーを眺めているうちに、40年前にユナイテッドの欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)のライバルであったベンフィカ・リスボン(ポルトガル)のエウゼビオの名が浮かんできたというわけです。ただし、クリスチアーノ・ロナウドはスポルティング・リスボンから移籍。

 彼もまたポルトガル代表として66年ワールドカップ・イングランド大会でも大活躍し、チームの3位と自身の得点王を獲得。サッカーの母国でも人気ある選手となり、また70年にはベンフィカとともに来日して親善試合で見事なシュートやドリブルを見せて、日本のファンを喜ばせてくれた。このとき、あの釜本邦茂が、そのサインをもらうという珍しい“事件”もあった。

「僕はエウゼビオを見た」――団塊世代にはこう言う人も多いだろうが、まずは彼の簡単なプロフィールをお伝えしたい。
 クリスチアーノ・ロナウドが同じポルトガルでも大西洋のマデイラ島(マデイラ酒でも有名)出身だが、85年2月5日生まれの彼よりも43歳年長のエウゼビオ(42年1月25日生まれ)は、東アフリカ、当時ポルトガル領だったモザンビークのロレンソ・マルケスで生まれている。10歳のときに同地のスポルティング・クラブの少年チームに入った。ここはポルトガルのスポルティング・リスボンの系列だったが、同じリスボンのライバルクラブ「ベンフィカ」が61年に彼と契約、19歳のエウゼビオはクラブのレギュラーとなり、ポルトガル代表にも加わり、翌年、欧州チャンピオンズカップの決勝で“白い巨人”レアル・マドリード(スペイン)から2ゴールを奪って5−3の勝利に貢献した。65年には欧州最優秀選手(バロンドール)、66年のワールドカップ・イングランド大会では前述のとおりポルトガルの3位獲得に貢献し、自身は9ゴールを挙げて得点王に――。
 69年までにポルトガルリーグでベンフィカは7回優勝した。32歳でひざを痛めた後、メキシコ、カナダなどのクラブでプレー。その後、テレビで解説やコーチなどを務めた。92年にはベンフィカは、ホームスタジアムの「エスタディオ・ダルス」の入口にエウゼビオの銅像を建てて、功績を称えた。
 代表46試合で36ゴール、ポルトガルリーグで7回得点王、68年には43得点でゴールデン・ブーツ賞に、プレーヤーの晩年に近い73年にも40ゴールで2度目の同賞受賞。こうした記録の数々と、彼が演じたゴールシーンは、ワールドカップ・イングランド大会での対北朝鮮の大逆転劇をはじめとして、60年代のサッカー人に深く刻まれている。

 彼のバネを生かしたシュートの威力や、技術の高さとともに彼のスポーツマンライクな試合態度は、その舞台となったウェンブリーの観客、イングランドのファンの共感を呼んだ。68年のユナイテッドとのチャンピオンズカップ決勝のノーマルタイムの終了間際、彼の見事なシュートを防いだアレックス・ステプニーに対して、その背中を軽く叩いて称賛したシーンはシーンは今も語られている。
 彼のプレーヤーの跡や、シュートの工夫に注目し、モザンビークの貧しい家庭の少年が、世界のトッププレーヤーに到達する過程を眺めてみたい。


(週刊サッカーマガジン 2008年3月4日号)

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