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エウゼビオ(2)ストリートサッカーに勝利し、ボールやシューズを手に入れた少年
エウゼビオの名が日本で知られるようになった頃、多くの新聞では「オイセビオ」と書かれていた。
日本代表の強化にやってきたデットマール・クラマーが「EUSEBIO」をドイツ語流にオイセビオと発音したためだろう。
「他紙がオイセビオなのに、わが社はエウゼビオとなっている。どうしてなのか」という記事診査部の指摘に苦笑いしたことを思い出す。
その発音をポルトガル領事館に確かめたのは62年5月2日。ヨーロッパチャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)で、ポルトガルのベンフィカが優勝したときだったはず。なにしろ相手は“天下の”レアル・マドリード。そのときの殊勲者がエウゼビオと伝えられてきたのだった。
ただし、日本で彼の名が広まるのは66年のワールドカップ(イングランド大会)で彼が得点王になってからだった。今のサッカーニュースの伝わり方の早さからみれば、まことに隔世の感――。
ヨーロッパの西端ポルトガルとアジアの東端の日本との距離は、サッカーに関しては天文年間の鉄砲伝来の頃のままだったのかもしれない。
42年1月25日、ポルトガル領東アフリカ、モザンビークのロレンソ・マルケスに生まれたエウゼビオは、8人の子どもを抱えた忙しい母の仕事を助けるために、幼いうちから買い物や隣人への言づてなどをするようになる。その“使い走り”の途中で、子どもたちがボールを蹴っているのに興味を持つ。ボールと言っても紙やボロ切れを丸めたものだったが……。そして、見物しているうちに自分のところへ転がってきたボールを、キックで返すようになる。
ある日、少年たちが2チームに分かれて試合するとき、一人足りないというので、エウゼビオは仲間に入る。夢中になって遊び、買い物を待っていた母親を心配させ、怒らせたこの8歳のときの“事件”が、彼のフットボールの最初の体験だった。
「マイ・ネーム・イズ・エウゼビオ(わが名はエウゼビオ)」という自叙伝(英語版)で彼は語っている。
学校へ行くようになってもクラスメイトとのサッカーは続いた。ついにはゴム製のボールを使うようになった。
エウゼビオ少年たちのプレーを見た大人のチコさんが、チームをつくろうと持ちかけて、仲間が集まった。チーム名は「ブラジリアンズ」で、子どもたちは好きなブラジルのスター選手のニックネームを自称した。
ガリンシャ、ジルセウ、アデミールなど“名選手”がいた。エウゼビオのいとこのマダラは“ジジ”、彼自身は“ネネ”を名乗った。
最初の試合の相手は“エストラーダ・アンゴラ(アンゴラ通り)”。ブラジリアンズは7−1で勝ち、エウゼビオは2得点した。試合は、各チームが10エスクード(ポルトガルの通貨)ずつ持ち寄り、勝った方が全部取ることになっていた。おかげでゴムボールの代金(12エスクード)を払うことができたという。試合を重ね、勝ち続け、互いのファイトマネーも高くなっていった。それでも勝ち続けたのだ。
やがてチコさんは、みんなを集めて「お金が貯まったから、革のボールを買おう」と言った。本物の革ボールの次はユニフォーム、そして全員が裸足のプレーヤーだったのが、靴をはいて試合をするようになった。
学校へ通い、授業を受け、放課後は6時までサッカーをした。くたくたになるまでボールを追い続けていた。近くにいたかつてのスポルティング・クラブの元プロ選手が、エウゼビオにロレンソ・マルケス・スポルティング・クラブ入りを勧めた。
エウゼビオは、このクラブの少年チームでのデビュー戦(3−1ナマチャ)で3得点を挙げた。彼のチームはモザンビーク選手権で2位となった。
裸足でボロ切れボールのストリートサッカーを楽しみ、試合に勝つことでボールやユニフォームを買い、ついにサッカーシューズを履くようになった少年は、ひたすらボールを追い、相手をドリブルでかわし、味方にパスを出し、ゴールを決めることを繰り返しているうちに、ポルトガルの名門クラブの系列下にあるこのクラブに入った。
しなやかで、驚くべきバネを持ち、その動きの速さと、反射能力で人を驚かせたストライカー、エウゼビオが世に出る時期が近付いていた。
その頃、本国ポルトガルの首都リスボンで、「スポルティング」と拮抗するライバル「ベンフィカ」も、このモザンビークの少年に目をつけていた。1904年創立のこのクラブは、54年に新しいスタジアムをつくり、東アフリカから選手を受け入れて強化を図っていたのだった。
(週刊サッカーマガジン 2008年3月11日号)