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エウゼビオ(3)名将ベラ・グッドマンの執着。東アフリカから名門ベンフィカへ
この号が読者のお手元に届くころには、08年のJリーグの第1節の結果が出ている――。16シーズン目のJには様々な進化が見られるだろうが、私には組織プレーとともに、個々のプレーヤーのレベルアップが大きな楽しみともなる。特にボールを蹴る技術、シュートを含めての上達を見ることができればと思っている。もちろんドリブルや1対1の駆け引きのうまさや強さにヒザを叩くのもうれしいことだが、キック(シュート)はヘディングとともに、練習の回数に比例する技術だからである。
いま連載中のポルトガルのストライカー、エウゼビオは、ブラックパンサー(黒ヒョウ)のニックネームどおり、しなやかな体を使ってのドリブルや、ヘディングのうまさ、速さとともに、そのシュートの威力で知られたプレーヤーだった。彼の蹴ったシュートは、爆発的なスピードで相手GKを脅かしたが、単に速いだけでなく、球筋そのもの、シュートそのものに“格”があったといえる。
そのエウゼビオの3回目、東アフリカからポルトガルの名門ベンフィカへ移る前後の話――。
モザンビークのロレンソ・マルケスの黒人街で生まれ育ち、ストリートサッカーに興じているうちに、スポルティング・クラブのジュニアチームに誘われ、そこでプレーし、練習をするようになった。
クラブの練習だけでなく、放課後はまた別の学校の友人たちと遊び、試合をした。
17歳になっていよいよ進路を決めるときが来た。子どもの頃からでデポルティボは依然として心に残っていたが、結局、兄の勧めでスポルティングのシニアに入ることにした。
最初の試合の相手はデポルティボだった。3−1で勝ち、彼は3ゴールした。
60年にベンフィカ・リスボンから2人のスタッフがやってきて、正式にベンフィカへ誘った。
母親はエウゼビオを遠いポルトガルへ送るのには反対だったが、やがて息子のために決心する。「彼はすでに一人前になって、弟たちの面倒を見ている。今のスポルティング・クラブ・ロレンソ・マルケスの報酬は十分とはいえない」
この母親の意見にベンフィカ側は、2倍以上の額で答えた。
ベンフィカの監督ベラ・グッドマン(1900−1981年)はエウゼビオの話を聞き、是非に、と考えていた。
ベラ・グッドマンはハンガリー生まれのユダヤ系で1924年のパリ・オリンピックにはハンガリー代表として出場、戦前の米国サッカーリーグでも活躍した。1933年からコーチとなり、名声を得たが、第2次世界大戦中はナチスの迫害を逃れてブラジルへ移り、戦争終結とともにブダペストへ戻り、あのマイティ・マジャールの基礎となるキシュペスト(のちのホンベド・クラブ)のコーチを務めた。さらに、イタリア、ブラジルなどで働いたあと、ポルトガルにやってくる。最初にポルト、次いでポルトガル代表監督、そして1959年からベンフィカの監督を務めていた。
“一つのクラブに長くいない”のをモットーとするグッドマンだが、その戦力や指導力は定評があった。ブラジルのサンパウロ(1957−1958年)で4−4−2のフォーメーションを用い、ブラジル代表の世界制覇への道に大きな影響を与えたことも知られている。
彼はこのとき、ブラジルのプレーヤーの能力の高さを知り、アフリカ系選手へ傾くことになる。
そこへ知人から東アフリカ、ロレンソ・マルケスでのエウゼビオのニュースがもたらされたのだった。
1960年12月16日の朝、エウゼビオのもとへリスボンから電話が入る。
「12月20日までにベンフィカとの間で契約を済ませよう。今日の飛行機でリスボンへ来てほしい。チケットは当方で手配した」
エウゼビオは、家族や友人たちとの慌しい別れののちに飛行機に乗る。スポルティングの関係者が引き止めに掛ったが、彼は出発した。
12月17日金曜日。深夜のリスボン空港には3人のベンフィカの役員と、数人のサポーター、そしてスポーツ記者2人が彼を待っていた。
スポルティング・クラブ・ロレンソ・マルケスは「エウゼビオは自分のクラブのプレーヤーだ」と主張した。
クラブ同士の話し合いがついたのは、1961年5月1日。ベンフィカが、ロレンソのスポルティングへお金を払うことで半年間の問題は決着した。
そして5月23日、彼はベンフィカの公式試合に登場した。
名将の下で、いよいよ天賦の才が花開くことになる。
(週刊サッカーマガジン 2008年3月18日号)