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エウゼビオ(5)レアルを倒して欧州王座に。追撃、勝ち越し、突き放しのシュート

 ラグビーフットボールやアメリカンフットボール、そしてアソシエーションフットボール(サッカー)を、フットボールという名の下にひとくくりにした「日本フットボール学会」の催しが3月中旬に大阪市立大で開催され、14日にデットマール・クラマーのスピーチがあった。ラグビーのトヨタの監督、関西学院大のアメリカンフットボールのコーチ、岡野俊一郎日本協会名誉会長の話もあり、パンフには研究発表の論文も掲載されていた。
 盛りだくさんな内容の大会に、あらためてそれぞれの関係者の熱意に頭が下がる思いがしたが、スピーチを聞きながら、56年前に大阪の産経新聞社で面接を受けて入社が内定したとき、当時の運動部長であった木村象雷さん(故人)に、「フットボールとは何か」と問われたことを懐かしく思い出していた。

 フットボール学会や、そのフットボールとは何か――については、別の機会、あるいはホームページに譲るとして、クラマーとはこんな会話を交わした。
「いま、サッカーマガジンでエウゼビオの話を書いているんです」(賀川)
「素晴らしい選手だった。しかし、私は東アフリカからリスボンへやってきた若者をバックアップした、マリオ・コルナの力が大きかったと言いたい。同じモザンビーク出身者の彼が、父親のように面倒を見たことが、エウゼビオの成長を助けたと思う」(クラマー)

 1935年生まれのコルナはエウゼビオより7歳年長。もともとアスリートで走り高跳びは1m83cmを跳んだとか。強烈な左足シュートと、衰えることのない動きで知られ、初めはベンフィカでCFだったが、のちに中盤のダイナモとして活躍し、「ポルトガルのジジ(58年ワールドカップ・スウェーデン大会で優勝したブラジルの、攻撃を組み立てた選手)」と言われた存在だった。
 1962年5月2日。チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)決勝で、エウゼビオやコルナのいるベンフィカはレアル・マドリード(スペイン)を破って欧州の王座についた。コルナにとっては、前年に続いての連続優勝、エウゼビオには初の欧州タイトルだった。
 この頃のチャンピオンズカップは、各国リーグのチャンピオンがノックアウト方式で争った。

 1960−61シーズンのポルトガル・リーグの優勝はスポルティング・リスボンで、ベンフィカは3位だったが、前年優勝チームの特権で参加し、予選ラウンドではなく、第1ラウンド(16チーム)から出場していた。
 最初の相手はFKオーストリア。ウィーンでのアウェー戦を1−1で引き分け、ホームで5−1。準々決勝の対ニュルンベルク(当時・西ドイツ)は、アウェーで1−3と2点差をつけられたが、ホームでは6−0と大勝した。第1戦を故障で欠場したエウゼビオも登場し、開始5分でジョゼ・アグアス、エウゼビオが決めて2点差を帳消しにした。20分にコルナの3点目、後半に入ってエウゼビオのシュートが決まって4−0。安全圏に入ったあとも勢いは止まることなく、アウグストが2得点を追加した。

 準決勝の相手はイングランドのトットナムだった。
 幸いなことにホームで3−1で勝利を収めた。イングランドのチームを相手に2点やそこらのリードで敵地へ乗り込むのはまことに危険だったが、頑張って1−2で終えた。何より、アグアスの先制ゴールが効いた。英国人記者ブライアン・グランビルによると、この頃イングランドのチームはまだこうしたヨーロッパ勢との戦いに慣れておらず、第1戦でビル・ニコルソン監督の守備重視の戦術がベンフィカを勢いづけたのだという。

 強豪を倒した後の決勝の相手は“天下”のレアル・マドリードだった。
 1956年の第1回から60年まで5年連続出場。前年は1回戦でバルセロナに敗れてタイトルを失ったが、まだまだ実力は高く評価され、アルフレッド・ディステファノや、フェレンツ・プスカシュ、フランシスコ・ヘントたちの攻撃力は衰えを知らぬようだった。
 そして試合はプスカシュの左足のシュートでレアルが2−0とリードした。
 エウゼビオのFKからアグアスが1点を返し、カベムのゴールで2−2とした。プスカシュの3点目で再びレアルがリードしたが、後半はベンフィカの勢いが勝り、コルナの同点ゴールの後、エウゼビオのドリブル突破でPKを得て、それを右足で決めてリードした。スコアボードの3−3を見ながら、「決める自信はあった」そうだ。5点目もエウゼビオで、FKでコルナからの短いパスを受け、ほとんど助走なしで独特の上から叩く右足シュートをゴール左へ決めた。
 ベンフィカを欧州の王座へ導いたエウゼビオは、チャンピオンズカップの常連スターとなるが、彼にはまだポルトガル代表での世界への挑戦が待っていた。


(週刊サッカーマガジン 2008年4月1日号)

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