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“育つ”から“育てる”へ

 2度目のこのW杯の大勝利ほどの華々しさは、その後のウルグアイには見られない。それでも1954年のスイスW杯、1970年のメキシコW杯にはベスト4に勝ち残り、優勝を狙うチームに心理的な負担をかける。

 彼らの守りのうまさ、カウンター・アタックの鋭さは、いつのまにか一つの性格として、ナショナル・チームの看板になってきた。

 ただし、そのナショナル・チームを編成する歴代監督の悩みは、優秀なプレーヤーの海外流出。人口も少なく、国民の半分が住むモンテビデオで150万人だから、リーグの観客動員数も多くない。ペニャロール、ナシオナルのようなビッグクラブ以外は経営も苦しい。したがって選手の給料も少ない。物価が安かった1981年でも、私の知人の向かいに住むプロ選手は、26歳になっても、まだ親がかりで暮らしていると話していた。高給の取れるヨーロッパへ選手が流れるのも当然のことだ。

 ヨーロッパではサッカー選手は育てられているが、南米では自然に育ってくる。とは、欧州のコーチたちが口にする言葉だか、育ってくるプレーヤーがつぎつぎに国外へ出ていったのでは、育つのを待っていられない。

 そこで、ウルグアイでも少年育成のシステムが、ヨーロッパと同じように整備されるようになった。いまから10年前に私が訪れたときには、すでに、その育成システムが見事に作動し、各クラブから若手が育ち始めていた。同時にまた、スカウト網が各地に張りめぐされ、北東部のブラジルとの国境近く、あるいは西部のウルグアイ河の沿岸地区などからも有望な素材を発掘するようになった。

 81年のコパ・デ・オロの優勝と、その年2月の第1回トヨタカップでのナシオナルの勝利は、こうした若手育成の積極策の成果だったといえる。

 同年1月にモンテビデオの市中で行なわれたコーチ会議でも、ナシオナル・クラブのトレーニングセンターのあるロス・セベデスでの昼食会でも、フィジカル・トレーニングに関する話題の多かったことが強く印象に残っている。

 ただし、ここでの体力トレーニングの話でもう一つ強調しておきたいのは、選手が自分で体力トレーニングのメモをつけ(コーチがいなくても)体重を計ったりしているが、トレーナーは「サッカーは体力でなく、イマジネーションと技術で決まる。体力はそれを補うもの」という考え方を持っていることだ。プレーヤーの資質を見るにも、彼らの間にはコモンセンスが確立していた。

(サッカーダイジェスト1990年4月号より)

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