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ブリテン島への選手の流出

 前述したが、1921年、アイルランドの自治法が調印され、南部の26州がまとまって「アイルランド自由国」となったとき、北アイルランドは英国(連合王国、ユナイテッド・キングダム)に属する。そしてダブリンに新しい「フットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド」を設立。ベルファストの「アイリッシュ・フットボール・アソシエーション」に加盟していた南のクラブはダブリンの協会に移る。
 こうして、アイルランド自由国、のちにアイルランド共和国と名乗るこの国のサッカーの歴史は、1921年から新しくスタートすることになる。

 現在のリーグは、プレミア・ディビジョン(1部)とファースト・ディビジョン(2部)がある。1部は12チームで、半数がダブリンにホームを置き、なかには北アイルランドのロンドンデリー市を本拠とするデリー・シティ(1928年創立)も入っている。日本にも来日したことのあるシャムロック・ローバーズ(ダブリン市、1899年設立)がリーグ優勝14回、カップ24回獲得と圧倒的な記録を持っている。

 アイルランド島は、ジョージ・ベスト(マンチェスター・U)やジム・マックローリー(ストーク・シティ)ピーター・ドカティ(マンチェスター・C、ダービー・カウンティ)などの名選手を生みだしたところだが、経済的に裕福なイングランドやスコットランドのクラブに優秀選手は流出する。この傾向はずっと変わることなく、代表チームのほとんどがイングランドとスコットランドのクラブ在籍者となる。
 国外への流出は、リーグの高水準の維持を難しくする。欧州の3大クラブカップで、アイルランドはまだ一度もタイトルはない。だから国際舞台での期待は、もっぱら代表チームに向けられる。しかし、普段は国外でプレーしている選手を、一つにまとめて国際試合を戦うのは生易しいことではない。
 ことに、長く激しいイングランドのリーグでは、ケガの回復が思うにまかせない。そんなハンデのために、地域予選制が採用されてから、アイルランドは予選を突破して一度もW杯本大会へ進んだことはなかった。


(サッカーダイジェスト 1991年3月号「蹴球その国・人・歩」)

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