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ジャッキー・チャールトンを監督に

 1984年11月13日、メキシコW杯の欧州予選第6組の最終戦で、アイルランドはデンマークに1−4の大敗を喫した。ダブリンのサポーターを前にしての敗戦から3ヶ月後、アイルランド協会はジャッキー・チャールトンを代表チーム監督に迎える。

 36年5月8日生まれのジャッキーは、66年のW杯イングランド大会での優勝メンバー。弟のボビー・チャールトンの華麗なプレーとは違い、地味だがムーア主将とともにイングランドの堅固な守りの核だった。
 長身で“ビッグ・ジャッキー”といわれる彼は、名門リーズのCBとして、イングランドのタイトルと代表チームの世界タイトルを手にし、監督としてもミドルスブラ(2部を1部に昇格)を手始めに、シェフィールド・ウェンズデー、ニューカッスル・ユナイテッドなどで手腕をふるっていた。
 自らのプレーぶりと同じように誠実で、且つ視野の広い彼は、アイルランドの作家オリバー・スイフトが書いた『ガリバー』、その巨人ガリバーが小人の国へ入ったように、巨視的な考えでチームを作った。

 英国系のプレーヤーは、ボールテクニックに劣る。それを補うには「動くこと、粘り強くプレーすることが第一。相手にスペースと時間を与えずに戦うこと、そして、攻撃では相手DFラインの裏を突く」ことを強調。ホートンやマグラース、ウィーランなど、ワールドクラスと評価される選手もいたが、彼らも「チャールトン流」で戦わなければならなかった。同時に彼は規律を重んじ、国民の期待に応えるチーム作りを選手全員に要求した。

 メキシコW杯の2ヶ月後に始まった欧州選手権の第7組予選で、J.チャールトン率いるアイルランド代表チームは、W杯ベスト4のベルギーとアウェーで引き分けたのを手始めに4勝3分け1敗。ベルギー、スコットランド、ブルガリアなどを押さえて西ドイツ本大会に出場した。

 1次リーグの初戦はイングランド。アイルランドはホートンの早い時間のゴールで優位に立って“本家”を倒した。イングランド側は、同じリーグでプレーしているアイルランド選手について、よく知っているという安心感があったかもしれないが、チャールトン監督のもとで生まれ変わり、しかも、イングランドへの対抗意識の強いリーグ仲間たちを読み損なった。
 第2戦は評判の高いソ連。壮烈なカウンターパンチの応酬で1−1の引き分け。最終戦はオランダと対戦し、オランダの誇るフリット、ファンバステン、ライカールト、クーマンのスター軍団と好勝負を演じ、タイムアップ寸前に決勝点を奪われた。
 ベスト4へは進めなかったが、自信を持ったアイルランドは、90年イタリアW杯へもステップを刻んだ。


(サッカーダイジェスト 1991年3月号「蹴球その国・人・歩」)

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