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八幡製鉄で自ら鍛え杉山、釜本とともに銅メダルチームの核となった 宮本輝紀(下)

 大分トリニータのナビスコカップ優勝は、九州のクラブによるプロフェッショナル・サッカーでの初のビッグタイトルということで、麻生総理から「地方の時代にふさわしい」という祝電が寄せられるなど、地方勢の快挙と大きな話題となった。
 大分県の名物知事であった平松守彦(現・大分一村一品国際交流推進協会理事長)と、その懐刀だった現トリニータ社長、溝畑宏の2人の先見性と行動力から生まれたクラブが、県民のバックアップを得て挙げた成果はまことに素晴らしいが、トリニータを頂点とするいまの九州のサッカーの盛況を眺めるとき私は43年前に初めて天皇杯で優勝した八幡製鉄(新日鉄)を思い出す。
 サッカーの普及が遅れていた九州で日本サッカーリーグ(JSL)でも優勝を争い、東京オリンピックからメキシコ・オリンピックへの日本サッカーの振興期に、この土地に基盤を築いたのが、この企業クラブ。そして、その中心選手が宮本輝紀だった。


高校を出て八幡製鉄へ

 前号でテルさんこと宮本輝紀が広島で育ち、山陽高校で活躍して、第1回アジアユース(マレーシア)の日本代表となり、3位入賞に貢献したところまで紹介した。その1959年(昭和34年)のマレーシア遠征から帰るとテルさんは八幡製鉄に勤め、サッカー部員となる。高校で知られたプレーヤーの彼に有名大学のサッカー部からの誘いもあったのだが、この企業クラブに主(ぬし)ともいうべき寺西忠成(26〜99年)がいたこと、広島出身の選手が多く、山陽高で1年上の大石信幸も既に入っていたこと――などが魅力だったらしい。
 寺西監督は私より2歳若く、広島一中、広島高等師範でサッカーに打ち込み、49年に入社すると50年に八幡製鉄サッカー部を創設、北九州に日本一を目指すチームをつくろうとした。新しい部の活動にはさまざまな困難がつきものだが、彼は会社のバックアップをとりつけ、練習環境を整え、高校出身の若いプレーヤーを企業内クラブで育てて強化していった。
 テルさんが入社する3年前の56年5月の第36回天皇杯では決勝まで進んだ。慶応BRBに敗れはしたが、創部から数年での成果だった。

 この大会で私は、八幡がそれまでの実業団の強チーム、田辺製薬や日立本社などが大学の有名選手を主にチームをつくったのと違い、高校出身者を練習で伸ばし、組み合わせているのを知った。佐伯博司のキープ力、渡辺正(メキシコ・オリンピック銅メダル)の突破力に驚くとともに、準々決勝、準決勝をそれぞれ延長引き分け、抽選で勝ち上がるという粘り強さと体力にトレーニングの成果を見た。この2年後、八幡は再び天皇杯で準優勝する。優れたプレーヤーであり、コーチであり、監督であった寺西は晩年に東福岡高校を指導して、同校を国見高校と並ぶ強豪に仕上げたことでも知られている。宮本が高校を卒業した直後のプレーヤーとして伸び盛りの時期に寺西監督と出会ったことは、まことに大きなプラスだったといえる。

 技術の上ではチームで誰よりも上手な宮本が奢ることなく新しい環境でもサッカーに打ち込めたのは、厳しくて面倒見のよい寺西監督あってのことといえる。
 テルさんにとってのさらなる幸いは、60年秋に日本代表に選ばれ、来日したデットマール・クラマーから直接指導を受けるようになったことだ。


フリッツ・ヴァルターの名人芸

 東京オリンピック(1964年)での代表強化策として招いた西ドイツサッカー協会(DFB)のコーチ、クラマーの功績についてはすでに多く語られている。いま振り返っても、彼の選手個々の能力を見極め、適切なアドバイスをし、反復練習によってその選手のテクニックを確かなものにしてゆく手法は感嘆のほかはない。
 60年(昭和35年)11月に代表チームに加わって、ソウルでのワールドカップ・チリ大会・アジア地域予選に出向いたテルさんは、対韓国第1戦(6日)では出番はなかった(1−2で敗れた)が、翌7日の全韓国対日本代表にフル出場した(2−2)。19歳317日でのデビューだった。
 試合前の全員写真を見ると、彼はベテラン八重樫茂生と、竹腰重丸団長、クラマー・コーチの間に立って写っている。以来、テルさんは八重樫とともに日本代表MF、リンクマンとして働くことになった。

 61年夏のヨーロッパ遠征とドイツでの合宿練習のときに、クラマーは友人であり、パスの名手として世界的に有名なフリッツ・ヴァルター(20〜2002年)を日本チームの練習に招いた。
 54年のワールドカップ・スイス大会で、西ドイツが“無敵”ハンガリーを破って初優勝した時の主将、でドイツきってのボール・プレーヤーであり、ゲームメーカーであったヴァルターは、58年のワールドカップ・スウェーデン大会に出場してチームをベスト4に進ませている。すでに代表から引退していた彼を復帰させたのは、クラマーの説得によると聞いたが、38歳でのスウェーデン大会でも見事なプレーだったという。
 そのヴァルターが日本選手に交じってプレーしたパスの寸分の狂いないすごさ、そのコースや各々の強弱だけでなく、出すタイミング、味方との呼吸を合わせるうまさはまさに芸術だった。
 クラマーは日本のチームリーダー・八重樫茂生と、若いが代表の中盤の担い手となる宮本輝紀に最高の手本を見せ、パスの極意を習得させたかったのだろう。


天皇杯に優勝、代表の中核に

 この年の秋から冬のシーズンにかけて、私は宮本輝紀のプレーがステップアップするのを見た。
 64年の東京オリンピック、宮本は八重樫の大きな動きのそばで、キャプテンの働きを助け、守備陣と攻撃陣の間を丁寧につなぎ、チームにほころびがないよう気を配っていた。
 65年正月、神戸で開催された天皇杯でテルさんは八幡製鉄の中心だった。ライバル・古河電工との決勝は0−0に終わったが、私たちは宮本輝紀がとうとう九州に天皇杯チャンピオンチームをつくるのを見た。
 65年にスタートしたJSLはまず八幡と東洋工業の優勝争いがあり、杉山隆一を加えた三菱がこの争いに割り込み、やがて釜本邦茂を得たヤンマーが割り込んでくるという楽しいものだった。

 代表は第5回アジア大会(66年)で3位となり、67年の予選を突破して、68年のメキシコ・オリンピックに向かう――。いまに比べればサッカーへの世間の関心はまだ低く、選手たちの技術も今ほどそろってはいなかったが、上昇期にあるサッカー界の活気と、その中でプレーする選手の気持ちは格別だった。その先頭に宮本輝紀、杉山隆一、釜本邦茂たちがいた。
 メキシコ・オリンピックでは八重樫茂生を初戦の負傷で欠きながらの銅メダル獲得となった。釜本の大成長による破壊力あっての3位であることは間違いないにしても、東京からの4年間の各選手のステップアップと精進があったことは疑いない。
 なかでもテルさんのミスのない確かな技術と、労をいとわぬ献身的なプレーは一つ一つの勝利に欠かせないものだったし、メキシコとの3位決定の“死力を尽くした”プレーは、岡野俊一郎コーチから見ても感動的だった。
 世界を驚かせた銅メダルではあったが、その後しばらくは順風満帆とはゆかず、日本のサッカーも停滞期に入る。テルさんたちが退いた後の代表チームも低迷期となるが、銅メダルを糧に日本サッカーは若年層に浸透して、次のプロ化の時代の爆発的な盛り上がりの大きな基礎をつくっていた。
 いまの九州サッカーの盛況もまた、テルさんと八幡、新日鉄の仲間たちによる布石が生きていると思う。


★SOCCER COLUMN

九州サッカーと日本一。国見を筆頭に高校のタイトル続々
 毎年正月の高校サッカー選手権では、このところ九州勢が活躍している。優勝回数を見ても国見高(6回)東福岡高(2回)鹿児島実業高(2回)島原商業(1回)と実に11回の九州勢によるタイトル。それも1984年(昭和59年)度から24回の間のこと。
 また、夏の全国高校総合体育大会のサッカーの部、いわゆる総体でも77年大会の島原商業(1回)にはじまり国見高(5回)東福岡高(1回)と30年間に九州勢が7回優勝している。
 いまや高校サッカーは九州勢を抜きにして語れないほど。古い話を拾うと、この九州のチームが高校選手権の歴史に登場するのは30年1月に甲子園南運動場で行なわれた第12回全国中等学校蹴球選手権大会。九州予選を勝ち抜いた熊本第二師範は1回戦で神戸一中(優勝)と顔を合わせ、1−2で惜敗している。以来、旧制中学、師範学校を通じての優勝はなく、高校選手権となって85年1月の第63回大会で島原商業が初めてタイトルを取ることになる。
 忘れてならないのは、全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)で42年に第五高等学校(現・熊本大学)が初優勝し、番狂わせといわれたことだ。このころ九州では五高や熊本師範、九州帝大(現・九州大学)などが主要チームだったが、レベルは関東、関西、広島などに比べると低かった。それを引き上げたのが東京オリンピック前後から台頭し、天皇杯を獲得した八幡製鉄だった。


(月刊グラン2009年1月号 No.178)

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