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監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精 ドラガン・ストイコビッチ(上)

 日本サッカーの長い歴史の中で、そのときどきに優れた業績を残し、後々にも影響を及ぼした先人を紹介するこの連載の今回は、今の名古屋グランパスの監督、ドラガン・ストイコビッチです。
 この雑誌には、もちろん毎号、現監督さんに関しての記事も多く、また、木村元彦さんのピクシーや東欧についての広い知識と丹念な取材に基づく『赤い魂 新章』という優れた連載企画もありますが、私にとっては、監督・ストイコビッチも魅力あふれる存在であると同時に、ピッチ上のピクシー(妖精)もまた、懐かしい選手。
 美しく、激しく、正確なプレーの一つ一つも、今なお深く刻み込まれています。今回は、そのプレーヤー時代を振り返りたい――優れた攻撃を創造し、そして自らも局面に現れて、重要なゴールを決めたフィニッシャーであった――その彼のプレーをもう一度、反芻し、考えたい。そうすれば、2008年のグランパスのシーズンを通して、戦いや今後の成長を見るための“何か”を得られるかも知れないと思ったからです。


名選手が監督に

 ストイコビッチがグランパスの監督になると聞いて、多くのサッカー人の中には「名選手必ずしも名監督ならず」という言い伝えを思い出した人もあるだろう。また、ピクシーがピッチで見せる美しいプレーとは別の“激情的”な姿、相手のファウルに対する怒り、レフェリーの判定に対する不服、不満の表し方などから、監督に向いているかどうかと危ぶまれた人もいたはず――。
 1年目のシーズンは、そういう危惧は当たらなかったようだ。彼のような負けず嫌いな性格は、自分の仕事をやり遂げるためには自分に不適当な部分があれば、それを抑えることができると、私は考えていた。
 彼ほどの技量に達するためには、天分の上に相当な反復練習――いわゆるハードトレーニングを重ねなければならないからである。

 1メートル75センチ、日本人と比べても大きいとはいえない体つきだが、彼がCKを蹴るときはニアポスト側でも、ファーポスト側でも、コントロールのいい球を蹴った。ゴール幅7メートル32センチを足したファーポスト側へ詰めてくる、当時のヘディングの名手トーレスの頭上へ確実に合わせていた。
 こうしたキック一つをとっても、彼が技だけでなく“力”もあったことが分かる。そういう技と力を組み合わせられるようになったのは、少年期から夢中でボールを追った時代だけでなく、ある程度の分別ができる19〜20歳の成長期にも自ら考え、自ら練習を課して積み重ねたからだ。日本でも世界でも、一流以上のプレーヤーになった人の多くはそうだったし、ピクシーもまたそうした“強さ”を持っているはずだから、その気になれば――と監督業にも期待していた。

 それともう一つ、グランパスのチーム統括部門に久米一正ゼネラルマネジャー(GM)が就任したことである。もちろん、この人の能力に目をつけたのだろうが、これまではトヨタ自動車という会社の中から適任者を選んでこの仕事にあてていたのが、社外から人を招いて専門家として3年契約を結んだというところに意義がある。
 日本サッカー協会(JFA)の仕事をし、Jリーグ事務局長を務め、柏レイソル強化本部長(96〜2002年)清水エスパルス強化育成本部長(03〜07年)としてそれぞれ実績を挙げてきた人が、責任をもって、監督をバックアップする体制をとることになった。日本ではどうしてもバックアップする会社(あるいは組織)から人を送り込むことが多く、本人の腕とは別に、本社の定年や役員との“格”といった問題が絡み、仕事に慣れたころにはまた別の部門へ移るという例も少なくない。世界のトヨタがこの点に着目して、プロフェッショナル部門の管理者と契約して責任を持たせることにしたのは(遅いという人もないではないが)大きな前進だと考えている。
 そういう背景を敏感なストイコビッチが感じないはずはない。選手の補充やチーム強化について、しっかり話し合えるのは監督に対する何よりのバックアップとなる。


19歳でユーロ84出場

 さて、そのドラガン・ストイコビッチ選手の名を私が初めて聞き、プレーを見たのは、彼が19歳の1984年6月13日の欧州選手権フランス大会(ユーロ84)の1次リーグだった。当時は8チームの参加で4チームずつに分けた第1組の第2試合、対ベルギー戦だった。会場は北フランスのランス。ユーゴスラビア代表はサフェト・スシッチといったベテランのFWはいたが、この日はベルギーが優勢で0−2で負けてしまう。ストイコビッチは後半の途中(59分)からMFの交代メンバーでピッチに現れた。ヨーロッパの記者たちはこの若者を知っているとみえて、何やら語り合っているらしいのを小耳にはさんで、やっぱりこちらの連中は――と思ったことを覚えている。そう、この日は同じティーンエージャー、ベルギーの18歳、シーフォの方が目立っていた。
 ユーゴ代表はこの初戦を落とし、第2戦の対デンマークも0−5で敗れてしまう。次の相手、ミシェル・プラティニのフランスとの試合はサンテチエンヌで行なわれた。脱落は決まっていたが、ユーゴに気迫があって好ゲーム。プラティニの3ゴールでフランスが3勝目を挙げたが、ユーゴもセスティッチが31分に先制し、1−0からプラティニの3点で1−3に開いた後、84分にストイコビッチのPKで1点差まで追い上げた。

 このころ、ストイコビッチはセルビアの東部、ニシュという街のラドニツキ・ニシュというクラブにいた。ユーロ84の後、すぐ彼はロサンゼルス・オリンピック代表に加わってアメリカに渡り、3位となり、銅メダルを獲得した。兵役の義務を1年間果たした後、ベオグラードの名門ツルベナ・ズベズダ(レッドスター・ベオグラード)と契約する。ベオグラード側は21歳の彼の見返りに、5人の選手とスタジアムの照明設備をラドニツキに渡したとの話が残っている。
 若者の前途は洋々に見えた。


ドラガン・ストイコビッチ 略歴(選手時代)

1965年 3月3日 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・セルビア社会主義連邦共和国ニシュに生まれる
1981年 16歳で地元クラブ、ラドニツキ・ニシュと契約
1983年 11月12日、ユーゴ代表デビュー、対フランス親善試合
1984年 6月、ユーロ84にユーゴ代表として出場
      7〜8月、ロサンゼルス・オリンピックに出場、銅メダルを獲得
1986年 ツルベナ・ズベズダ(レッドスター・ベオグラード)と契約(89−90年シーズンまでプレー)。名門クラブでの最初のシーズンは攻撃を組み立てるとともに15ゴール(チーム得点王、リーグ2位)のフィニッシャーとして活躍。その見事なプレーぶりにファンはピクシー(妖精)と呼んだ
1990年 6月、オリンピック・ド・マルセイユ(フランス)に移籍
1991年 6月、ベローナ(イタリア・セリエA)に移籍
      11月、ユーロ92の予選第5組でユーゴ代表は8戦7勝1分け(24得点、4失点)で1位となる
1992年 ユーゴスラビアは91年6月のスロベニア、クロアチアの独立宣言に始まり、クロアチア紛争を経て、4月にユーゴスラビア連邦共和国(セルビア、モンテネグロ)が樹立し、旧ユーゴは解体される。しかし、国連は新ユーゴ連邦が戦争を仕掛けたとして制裁措置を採択、UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)がユーロ92へのユーゴの出場権を剥奪。第5組のデンマークが急きょ、代替出場となる
1994年 6月13日、名古屋グランパスと契約
      11月、アーセン・ベンゲルが同監督に就任(96年9月まで)。Jリーグ・ニコスシリーズでグランパスは6勝16敗で12位(最下位)
1995年 1月、ユーゴ代表として香港4ヶ国対抗戦に出場
      7月、Jリーグ・サントリーシリーズで15勝11敗で4位
      11月、同ニコスシリーズで17勝9敗で2位
1996年 1月1日、第75回天皇杯決勝でサンフレッチェ広島を3−0で破り、グランパスが初優勝
1998年 6月、ワールドカップ・フランス大会にユーゴ代表として出場。ユーゴ代表は1次リーグ・Fグループでイラン(1−0)アメリカ(1−0)に勝ち、ドイツと引き分けて(2−2)決勝ラウンドに進み、1回戦でオランダに敗れて(1−2)準々決勝に進出できず。ストイコビッチは4試合に出場し、対ドイツ戦で1ゴール
2000年 1月1日、第79回天皇杯決勝でサンフレッチェを2−0で破って2度目の優勝 2001年 6月、ユーゴ代表としてキリンカップに出場
      7月21日、J1リーグ第1ステージを最後に現役引退
      10月6日、引退記念試合、グランパス対レッドスター・ベオグラードが豊田スタジアムで行なわれた


★SOCCER COLUMN

2000年天皇杯決勝でのスーパープレー
 日本のサッカーファンの多くが、ピクシーというニックネームとともに思い出す最も印象的なシーンは、2000年元日の天皇杯決勝だろう。
 相手はサンフレッチェ広島。前半は0−0、サンフレッチェの堅い守りをこじ開けられなかったが、後半11分にストイコビッチの右サイドからのクロスに合わせた呂比須ワグナーのヘディングで1−0。
 グランパスの動きに勢いが出て、ボールへのプレッシングが強くなり、攻めの回数が増える。後半37分にチャンスが来た。呂比須がドリブルで自陣深い位置から持ち上がり、ウリダへ。ウリダが前へ送ったボールをトーレスが駆け上がって取り、左サイドのストイコビッチへ送る。ピクシーはペナルティーエリアを左から右へドリブルしながら相手DF2人をシュートフェイクでかわして、右足で強いシュートを決めた。

 この年はリーグ後半からチームの調子が上がって、天皇杯4回戦で鹿島アントラーズを2−1、準々決勝でジュビロ磐田を1−0、準決勝で柏レイソルを2−0で倒しての決勝進出だった。天皇杯のタイトルは4年ぶり2度目。前回の相手もサンフレッチェだった。そういえば、ピクシーのJでのデビュー戦もサンフレッチェだった。
 いずれにしても、ゴール前でのフェイントとシュートの連続動作の美しさは赤いユニフォームとともに、テレビ観戦者に強い印象を残している。


(月刊グラン2009年2月号 No.179)

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