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メルボルン五輪で日本と対戦

 オーストラリアといえば、私には、まず1956年のメルボルン・オリンピックが浮かぶ。  聖火がはじめて赤道を超え、南半球での最初のオリンピック――この大会では、ロー ズ、コンラッズのオーストラリア水泳陣の 強さが印象に残ったが、同時にサッカー人には戦後初めてのオリンピック参加として忘れられない。
 第2次大戦の空白期を経たあと、1948年のロンドン・オリンピックには出場できず、1951年ニューデリーでの第1回アジア大会には国際舞台復帰を許されたが(サッカーは3位)1952年のヘルシンキ・オリンピックは視察員一人を送っただけ。当時の日本の外貨事情(ドル不足)は、スポーツの海外渡航も制限されていたから、52年のオリンピックには陸上、水泳を中心とし、体操、レスリングといった個人競技を加えた選手団だった。

 世界中に広がりをみせたサッカーは、この大会から地域別の予選制を始め、日本は韓国、フィリピンと同じ組。まずフィリピンに勝った韓国を日本に迎えた日本は、第1戦を2−0で勝ち、第2戦は0−2で敗れ、延長でも決着がつかず、規定によって抽選を行い、日本のメルボルン行きが決定した。
 当時のメンバーには、いまの日本協会副会長の長沼健、名古屋グランパスエイトの監督・平木隆三などがいた。

 大会はノックアウト式の勝ち上がり制で、日本の初戦は開催国のオーストラリア。体格の優れた、あたりの激しい相手に日本の動きが封じられ、0−2で敗れたのだった。
 水泳やラグビーと違って、いわば“無名”のオーストラリアサッカーが予想以上だったことで、当時のメンバーは改めて世界の広さを知ることになった。


(サッカーダイジェスト 1992年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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