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サッカーは移民のスポーツ

 オーストラリアにサッカーが導入されたのは、1880年代、英国人の鉱山労働者たちがプレーしたのが始まりという。
 その1世紀前の1770年、英国探検家キャプテン・クックが東部海岸地域を調査して「ニューサウスウェールズ」と命名し、イギリス領土と宣言したことは有名だが、実は1642年、彼よりさらに130年前にオランダ人タスマンが、この大陸の西海岸に沿って南下し、東南のタスマニア島に達して、西岸一帯を「ニュー・ホラント」と名付けている。
 そして1801年、英国人フリンダースがこの大陸を一周してタスマンのいう「ニュー・ホラント」もクックの「ニューサウスウェールズ」も同一の大陸であることを知り、古くからの想像上の大陸の名、テラ・アウストラリスと呼び、やがて1828年、アウストラリス大陸は英国の支配下に入る。すでに開拓者や囚人が入植するようになっていたところへ、金鉱が発見されて人口が急増。1901年にはオーストラリア連邦が結成されて、自治国となる。  サッカーはこうした社会を背景に、南東部のニューサウスウェールズにまず定着。1882にはフットボール・アソシエーションが設立される。1885年にはノックアウト・システムのトーナメントも行なわれ、1904年には選抜チームがニュージーランドへ出かけて8試合を行なっている。

 第1次大戦後、1921年にはニューサウスウェールズにオーストラリアン・サッカー・アソシエーション(ASA)が誕生した。この教会はロンドンのFA(イングランド協会)に加盟し、1925年にはロンドンから選抜チームが訪れ、ブリスベン、シドニー、マイトランド、メルボルンなどを転戦している。
 こうして徐々に発展したサッカーだが、オーストラリアでは、ビクトリア州(メルボルンがある)、サウス・オーストラリア州(アデレード)、西オーストラリア州(パース)などではオーストラリア・ルールのフットボール(オーストラリアン・フットボール)が広まっていた。

 フットボールが1863年のFA(フットボール・アソシエーション)設立によって、手を使わない(サッカー)フットボールと、手を使う(ラグビー)フットボールに分かれたことは、すでにご存じの通りだが、オーストラリア式はアイルランドに今も残っているのと同様で、手を使い、ボールをゴール(ラグビーのゴールに似た)へ蹴り入れることで得点となる競技。もちろん身体へのタックルがあって、激しく勇壮。いまでもオーストラリアで最大の観客を集めるスポーツとなっている。56年のメルボルン・オリンピックのスタジアムも、ふだんは同市のオーストラリア式フットボールの競技場(収容10万人)を一時借用したもの。
 この独特の競技の他に、15人制のラグビー(日本で行なわれている)、13人制のラグビーも盛んで、これら同類のスポーツとの競合がオーストラリアでのサッカーの宿命となっていた。

 第2次大戦はオーストラリアにとって、太平洋という近くの海域で激しい戦闘が行なわれ、ある時期は日本の海軍の脅威を感じるという新しい経験をした。アメリカ軍との合同作戦によって、アメリカ文化の移入もあり、さらに大戦後には、ヨーロッパからの移民の受け入れが、それまで英国系中心の白人社会を築いてきたこの国に大きな刺激となった。スポーツではサッカーが最も影響を受ける。
 1945年から1965年までの20年間に多くの新しいクラブが生まれたが、その名前を見ると、バックアップするグループの人種がわかる。1959年のサウス・メルボルン・ヘラス・サッカークラブは、ヘラス(HELLAS)つまり、ギリシャ系であり、シドニーのセント・ジョージはわざわざセント・ジョージ・ブタペストとハンガリーの首都の名前を入れていた。
 他にも、メルボルン・クロアチア、プレストン・マケドニアなど、東ヨーロッパやバルカンの地域名もついている。

 戦火で荒廃した故国を逃れ、新天地に移住したヨーロッパ人たちにとって、毎日の仕事と共に忘れられないのがサッカー。それは単にスポーツの楽しみだけでなく、サッカークラブを作って集まることで、自分たちのルーツを確認し、そのキャラクターを保持するよりどころでもあったろう。
 移住民の中に、もちろんサッカープレーヤーもいたし、チーム強化のために選手を呼び寄せるクラブも現われた。
 1960年にはオーストラリアとオランダの選手を受け入れたシドニーのクラブがあったが、彼らの所属していた母国のクラブの承認なしに移籍させた問題がこじれて、オーストラリア教会はFIFAから国際活動の停止処分を受けたこともあった。


(サッカーダイジェスト 1992年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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