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W杯目指す“サッカールー”

 メルボルン・オリンピックの翌年に、ニューサウスウェールズにサッカー・クラブ連盟が生まれ、これがASA(オーストラリア・サッカー協会)に代わって実権を持つようになる。ASAは1961年にオーストラリア・サッカー連盟(フェデレーション)となり、1963年、FIFAに加盟する。

「サッカーは移民のスポーツ」と背を向ける人々の目を集めるためには、まず国際舞台での活躍――と考えた連盟は、1966年のW杯出場を目指した。
 イングランドでの本大会で活躍すれば、英国系の人たちの関心を呼べるという狙いもあった。オーストラリアはまず南太平洋地域を含むオセアニア連盟の設立を計画し、1965年にFIFAから地域連盟として認められた。
 ただし、この地域は伝統がないために、W杯やオリンピックへの出場は地域の予選の上にさらに、アジアあるいは他地域のチームとの試合が加えられた。
 66年W杯の予選は、北朝鮮との対戦に連敗して夢を砕かれ、70年のメキシコW杯もイスラエルとの試合に敗れてしまう。だが、関係者はくじけることなく、74年西ドイツ大会を目指した。

 73年に行なわれた、アジア・オセアニア地域予選、ニュージーランド、イラク、インドネシアとともに、B1組に入ったオーストラリアは、3勝3分けでグループ首位の座を獲得して、準決勝に進出する。イランとの準決勝では1勝1敗と星を分けたが、得失点差で勝り、韓国との決戦に臨んだ。
 東アジアNO.1チームとの対戦は、2戦して2引分け。決着は中立地香港でつけられることになり、オーストラリアはこの試合に1−0の勝利を収めた。

 世界を目指す、このひたむきな一国――ある記者が、カンガルーをもじって「サッカールー」と名付けたが、彼らの成功は大きな反響を呼んだ。
 当時の連盟会長、サー・アーサー・ジョージは「オーストラリア人にとっては、サッカーは世界に出ていく上での最も良き外交となる」というのが持論のバークレー監督に深い信頼を寄せていた。サッカーによって、英国連邦諸国だけでなく、近いアジア各国と交流できることが大切だと考えていたのだ。バークレーは1967年にサッカールーたちを東南アジアに遠征させたが、それもこの方針からだった。
 彼のもとで、ユーゴ人のコーチ、ラジックが若手の指導にあたったのも効果があった。18人の代表選手のうち、11人がオーストラリア生まれか、オーストラリアでサッカーを始めた者。いわば、国産によるW杯出場だった。

 実は、本大会でのサッカールーを私は見ている。残念ながら1次リーグで東ドイツ、西ドイツ、という強いチームにあたって2敗。それでもチリとは0−0の引き分けを演じた。62年W杯開催国、3位の実績を持つ南米のサッカー強国から勝点1を得たことは、大きな励みとなった。
 W杯出場というエポックメイクは、3年後の全国リーグ結成につながる。ニューサウスウェールズ、ビクトリア、サウス・オーストラリア、クイーンズランド、ウエスタン・オーストラリアの各州のリーグが集まって、ナショナルリーグの創設を図った。
 東西4000キロもある広大な大陸のリーグは、チームの移動費用だけでも大変な額になるが、オランダの世界的大企業フィリップスがスポンサーとなり、14チームのリーグが1977年にスタートした。

 日本リーグが始まったのは東京オリンピックの翌年、1965年のこと。それに比べると約10年遅れているが、日本と違って企業のバックアップのない地域社会のクラブが、日本よりはるかに広い国で全国的にリーグを展開するのだから、より大きな労力と、金、そして時間を必要としたのは当然である。


(サッカーダイジェスト 1992年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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