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ユース、U−16での活躍

 全国リーグ結成から4年後、今度はFIFAワールドユースの開催を引き受ける。
 世界へ出ていくだけでなく、世界的な大会を開くことで広くアピールし、またユースという20歳以下にサッカーという競技を浸透させることが狙いだった。
 その2年前、日本は地元で開催されたワールドユースで1次リーグすら突破できなかったが、オーストラリアは前回チャンピオンのアルゼンチンに勝ち、新興カメルーン、本家のイングランドと引き分けてベスト8に残った。
 惜しくも準々決勝で西ドイツに0−1で敗れたが、この年齢層ではオーストラリアの若者が、欧州、南米、アフリカにひけを取らないことが明らかになった。

 一つの自信は次の好結果を生む。81年のワールドユースは、ホスト国のために予選なしでの出場だったが、2年後のメキシコ大会にも、地域予選を勝ち抜いて出場を果たし、本大会ではベスト4に進出する。
 好影響は16歳以下のU−16の世界大会にもおよび、第1回大会に出場したオーストラリアは、これ以後、ユースとジュニアユースの国際大会で常連となる。

 もっとも、大人の方は74年以降のW杯に出場できないでいる。国際舞台で勝てないと、歴史の浅い全国リーグの観客動員能力も落ちてくる。そのため、フィリップス社が82年からスポンサーをおりてしまった。
 このため、全国リーグはニューサウスウェールズを中心とする北地域、ビクトリア州を主とした南地域のふたつに分けた地域リーグに戻され、また、サッカーの将来像を見つめるマーケットリサーチなどにも力を入れて、再建を図った。
 そんな苦境にあっても、サッカールーたちの希望――青少年育成は進んだ。1980年代のはじめ、スクールボーイでサッカーをする子供たちの数は19万2957人。“先進”のラグビーやオーストラリアン・フットボールの関係者がうらやむほどの大きな数となっていた。
 青少年の普及と育成の成果は、まずオリンピックに顕われた。88年ソウル五輪予選で、オセアニア・イスラエルゾーンを勝ち抜いて、本大会出場を果たしたのである。
 イスラエルはアジア連盟に属していたのだが、アラブ諸国のボイコットによって、W杯の地域予選はオセアニアのグループに編入されることが多かった。オーストラリアにとっても大変な強敵だったわけだが、そのイスラエルとニュージーランド、台湾を相手に、4勝2分けという成績を残し、代表権を獲得した。

 1988年9月18日、D組第1組でのオーストラリア1−0ユーゴの知らせは、大いに世界を驚かせた。第2戦でもナイジェリアを1−0で倒し、グループ2位でベスト8に進出。釜山での準々決勝では、ミハイリチェンコらの優秀選手をそろえたソ連に0−3で敗退したが、1956年の開催地出場から32年後につかんだ堂々たるベスト8だった。
 この好結果が、さらに国際舞台での活躍を加速する。
 1991年のポルトガルでのユース(U−20)では、とうとうベスト4に到達。それも準決勝で開催国に0−1で敗れ、3位決定戦はソ連とPK戦を演じるという接戦の末だった。

 1979年、この国より2年前にワールドユースを開催し、一足早くワールドユースへの眼を開いたはずの日本が、それ以降、全く世界へ若者を送り込めないでいる間に、オーストラリアはどんどん前進していった。


(サッカーダイジェスト 1992年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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